”Some aspects of forestry in Sarawak in the 70s” (Lee Hua Seng氏講演会報告) Posted on 2012/04/16 by nakane ”Some aspects of forestry in Sarawak in the 70s”(Lee Hua Seng氏講演会報告) 2010年11月17日 京都大学 東南アジア研究所 Lee Hua Seng氏は、1970年、オーストラリア国立大学で森林学を修めた直後に、サラワク森林局のAssistant Directorとして職務に就いた。大学卒業と同時に、学歴を積んだリー氏の帰国を待ち受けていたのは、ビントゥル県区内陸部の木材伐採ベースキャンプへの直赴任であった。 雇用契約にかんする書類等の事務的な手続きさえもなかったというが、この唐突ともいえる現場への配属は、当時みられた南洋材への国際的な需要の急速な高まりにより、サラワク州内の林業開発が急務の課題とされていたことによる。 サラワク森林局は1919年に設立されたが、とくに林業セクター整備を目的として、1967年に国連に対し専門家の人材派遣を求めた。これによって、政府と民間企業の間の連携を強化し、より産業の育成をめざすべく事務管理の効率化をめざした。そしてリー氏は、森林評価調査官(Forest Inventory Officer)として、州内で8地域に定められた評価区画のうち、ビントゥル地区のAnap および Kakus の2 区画を担当した。ロジスティックス面の整備役として地域のロングハウスの住民らとも親しみ、また一方では、密林内にヘリコプター発着所を敷設するために上空機内から身を乗り出して決死の作業もおこなったと振りかえる。 1970年代の森林資源を基盤としたサラワクの木材産業とは、まず伐木業と製材業が重要な位置をしめ、そしてベニヤおよび合板、家具、形板、ダボ(木材を接ぐ際に接合面に差し込む小片)、積層板、チップ、ジェルトン材、ニッパヤシ(砂糖やアルコール製造用)などの製造業が続いた。またさらにエンカバンの樹木から採れるイリッペナッツの実や、ラタン、ダマール樹脂、そしてツバメの巣(これも森林産物とされる)などが産業を構成する商品であった。 そして70年代の伐採と木材産業の展開についてリー氏は年度をおって説明した。まず1970年は、サラワク森林局と国際連合食糧農業機関(FAO)との間でおこなわれた3年間の森林資源調査の2年目にあたり、調査は沿岸部のMukahとBalingianおよびKakus川上流に集中しておこなわれた。この年の丸太生産量は前年より増加をみせるが、FAOの調査の結果を受けて、新たな伐採ライセンスの発行が停止された。1971年はFAOとの調査が終了。伐採業は世界市場の急落によって停滞を経験する。また日本市場における市場の飽和状態と、米ドルの変動などが要因となって、多くの伐採キャンプと製材所が閉鎖に追い込まれ失業者が出たという。翌年も伐採業の景気低迷はつづくが、下半期から市場は上向き、ラミン合板材とベニア材(メランティ)の取引値が記録的な高値をつけるに至る。大規模な木材加工工場の開業にともない、現場は労働力不足に陥る。 1973年は前年のめざましい回復基調がつづいたが、年の終わりからラミン材の需要が下落する。しかしメランティ市場は良好。州内の森林の枯渇と、FAOによる伐採ライセンス発行の停止がつづき、丸太の伐出し量の減少は年いっぱい続く。またFAOの推奨によってサラワク木材産業開発公社(STIDC)が設立される。製材の輸出量が増加するいっぽうで、在来住民による移動焼畑が問題視されるようになる。 1974年は世界的な石油危機により木材市場が急激に落ち込みをみせ、木材生産量も落ち、多くの伐採キャンプは閉鎖に追い込まれる。翌1975年は一転して景気が上昇傾向をみせたが、日本などのバイヤーは商品に品質をもとめるようになる。木材輸出量は前年比25%の下落をみせるものの、市場の楽観的ムードによって森林局の人材確保がもとめられた。 1976年は、香港や日本などの海外市場が良好にあって、丸太生産も製材も輸出量は完全に好転する。ライセンス発行数は、1975年に43社だったが76年には151社へと大幅に増加した。サラワク森林局はとくに専門職において深刻な人材不足を経験する。同76年の第4四半期から丸太の輸出量が下降したが、翌77年には製材の輸出量が前年比11.3%と記録的な伸びをみせた。 1978年は、日本など輸出相手国における住宅市場の活況やサバ州の丸太輸出量の制限により、丸太生産量が前年比22.5%の伸びをみせた。いっぽうで、在来民の移動焼畑が再び問題視される。また伐採ライセンスは、50万エーカーの土地内に53社へ発行され、過密状態から森林局はライセンスの発行停止も考慮し始める。また丸太原木の輸出を止め、地元の業者による加工も促される。 森林局の60周年をむかえた1979年は、丸太生産量は前年比25.7%の増加。製材は13.8%の減少。 世界市場における熱帯硬材への需要の高まりから、取引価格の高騰をうけ収入は増加。専門職員の人材不足が続く。そして1970年代の10年間における木材産業は、製材所数は122から127に増加、形板とダボ製造所は0から17、積層板は0から4、合板ベニアは1から3に増加した。主要な輸出相手国は日本がほぼ常にトップにあるが、1978年のみ台湾の輸入量が日本を上回った。 以上のように、リー氏が伐採キャンプに務めた1970年代の木材産業発展の軌跡が話された。また一方で、サラワク州内で定められた8評価区画とは別に、1970年代に侵攻した泥炭湿地林における伐採について話していただいた。植生の豊かさで知られる泥炭湿地林は、沿岸部の低地に位置することでアクセスが容易なことと、またラミンやメランティなど高価な樹木の豊富な植生によって、サラワクでは早くも1947年に商業伐採が始まった。現在はもうほとんどが伐り出され、土地はすでに別の用途に転用されている。 このように、リー氏はサラワクの森林にこれまで40年間関わってこられた。サラワク森林局とサラワク木材協会の組織の窓口役として、その間は日本の多くの生態学研究者の受け入れを率先して担い、とくに京都大学では1988年以後リー氏が現地カウンターパートとしての役割を負ってきた。 サラワクの森林をめぐる環境は、これまで大きく変化してきたが、リー氏は今後ともサラワクの森林変化に注目していきたいと語り、講演を締めくくった。 (報告:長谷川悟郎)