スアイ-ジュラロン間エクスペディション

Inter-riverine society論の構築に向けて――スアイ-ジュラロン間エクスペディション

 (祖田亮次)

参加者: Jayl Langub(UNIMAS)、Linggok ak Ovat(ルマ・ジュライヒ)、Julaihi Keti(ルマ・ジュライヒ)、Logie Seman(元サラワク森林局)、石川登(京都大学)、奥野克巳(桜美林大学)、甲山治(京都大学)、柳原秀年(映像作家)、祖田亮次(大阪市立大学)、ほか現地ポーター3名

 2012年8月に、スアイ川上流からジュラロン川上流にむけて、森の中を徒歩で抜けるというエクスペディションを行いました。本科研では「流域社会」という概念が重要なキーワードのひとつとして掲げられていますが、実は、流域と流域を結ぶ分水嶺を越えての徒歩移動が、より広域的な社会的ネットワークの形成にとって重要な要素となっていたであろうという想定のもと、ジュラロン川のプナンたちが使っていた徒歩ルートを再現し、かつての流域間の結びつき(inter-riverine connection)を実感すると同時に、新たな地域社会論のユニットを考察する契機と位置づけたイベントでした。

8月22日から24日の行程 (作成:甲山氏)/The trekking route from Aug.22-24 (Created by O. Kozan)

8月22日から24日の行程 (作成:甲山氏)/The trekking route from Aug.22-24 (Created by O. Kozan)


 参加者は、8月20日にビントゥル・オフィスに集合し、綿密なミーティングを行った上で、8月21日にミリ-ビントゥル道路沿いにあるジャンバタン・スアイのプナン集落(ルマ・オゴス)に向かいました。現在のルマ・オゴスは、同村出身の有力者ダトッ・アサン・スイの後ろ盾もあって、現在はアブラヤシ栽培で経済的に潤っており、世帯によっては5~6台のピックアップ・トラックや乗用車を所有しています。村内の幅の狭い未舗装道路は、常に車が行き交う状況で、いわゆる「森の民」プナンのイメージとかけ離れた村の現状は目を見張るものがありました。
 ルマ・オゴスでは、「ダイアログ・セッション」と称して、村長のオゴス氏(1931年生まれ)をはじめとする古老たちに、スアイの集落の歴史やプナンの移動履歴について聞き取りを行いました。断食明けの休暇で、たまたま親族宅を訪れていたタタオ県の行政官長官ニュラック氏(UNIMAS卒のジュラロン出身プナン)も一部参加してくれました。
 現在のルマ・オゴスのプナンは、ジュラロン川のプナンとほぼ同じ言葉を話し、非常に多様かつ複雑な通婚関係・親族関係を持っており、彼らはもともと同じグループであったことが、ほぼ確認できました。オゴス氏は、歴代村長、約10代前までの歴史を記憶・記録しており、18~19世紀頃はスアイ川の再上流域に住んでいたのが、徐々にスアイ川を下りながら移動を繰り返し、1970年代に現在の場所に定着したとのことを語ってくれました。
ビントゥルにあるオフィスでのミーティング模様 / Staff meeting at our office in Bintulu ルマ・オゴス村長(前列右から2人目)との集合写真
 スアイ川下流に移動してからも、ビントゥルへつながる道路がなかった頃は、スアイ川を遡上して、そこから山を越えてジュラロン川に抜け、さらに船でトゥバオに下るというのが、町への最も近いアクセスだったということです。また、トゥバオの町ができる以前は、ジュラロン川と支流のクブル川との合流点(現在、小学校のある場所)にブルックの築いた砦があり、先人たちはそこの交易所にジュルトンやダマールなどの商品を売りに行っていたとこのことでした。
 オゴス氏自身が今回の山越えルートを歩いたのは、1970年代が最後とのことです。その時は、今回のメインの案内役であるリンゴッ氏(ジュラロン川のルマ・ジュライヒに婚入したカヤン)と一緒だったと言います。しかし、その後オゴス氏は、山越えの徒歩ルートを使うことはなくなったそうです。1970年代半ばにミリ-ビントゥル道路が開通したことにより、最も近い町が陸路で行けるビントゥルになったことが大きな要因だったようです。

山越えGPS4 (作成:甲山氏)/A GPS image of our trekking route (Created by O. Kozan)

山越えGPS4 (作成:甲山氏)/A GPS image of our trekking route (Created by O. Kozan)


 カンポン・オゴスで一泊した後、翌22日の朝に、4WD車でスアイ川上流に向かいました。スアイ川沿いは、ほぼアブラヤシ・プランテーションで覆われているため、かつてのような船での遡上ではなく、陸路を利用して徒歩ルートの出発点まで移動しました。
 まず、かつて船で移動していた時代にあったという、スアイ川最上流地点の船着き場(1990年代初頭までは小屋の支柱に使っていた鉄木が残っていたとのことです)の場所を確認した上で尾根線まで戻り、そこから歩き始めました。午前11時半くらいでした。10年ほど前までは、ジュラロンのプナンたちが狩猟や漁撈目的でも使っていたルートでもありましたが、やはりかなりの年月使用していなかったため、藪こぎ(主にリンゴッ氏が担当)に時間がかかり、歩行の速度は遅々としたものでした。しかしその分、頻繁に小休止を取りながら、ゆっくりと楽に歩くことができました。
 22日は、午後2時半ごろに歩行を終えて、ジュラロン川支流のムルアン川のさらに支流であるブルスカット川沿いで野営準備を始めました。野営の仕方はグループ内でも色々な意見がありましたが、プナン・スタイル(即席小屋での雑魚寝)と森林局スタイル(ハンモック利用)に分かれて、各自が選ぶことにしました。夜中に小雨がぱらつきましたが、恐れていた蚊に悩まされることはありませんでした。リンゴッ氏に言わせると、しばらく人が入っていなかったので蚊がいないのは当然で、あと3~4日も野営していれば、大量の蚊が発生してくるだろうとのことでした。
 23日の朝食は、川に仕掛けていた網に魚がかかっていたので、それをスープにした豪華なものでした。ゆっくりとした食事を楽しんだ後、午前9時ごろに出発しましたが、前日同様、藪こぎに時間がかかりました。ジュラロンの側のかつての船着き場であったムルアン川とスサン川の合流点にたどり着いたのは、ちょうど正午頃でした。今回は、藪こぎが大変だったこと、荷物が多かったこと、途中で森に関するいろいろな知識を聞きながら歩いたことなどから、1泊2日かけて歩いたことになりますが、かつて徒歩ルートが歩きやすく維持されていた頃は、スアイ川の船着き場からムルアン川の船着き場まで、彼らの足で3時間もあれば移動できる距離だったということです。ジュラロンやスアイのプナンたちが容易に山を越えて、異なる水系を常に行き来していたことを想像できた瞬間でした。
 しかしながら、今回は乾季の8月にエクスペディションを強行したことから、ムルアン川の水量は船が入れるほど十分なものではありませんでした。出発前のリンゴッ氏は、事前にスサン川に船を準備しておくと言っていたのですが、水量が足りずにそれができず、結局、我々は、目的地のルマ・ジュライヒまでさらに歩かざるを得ませんでした。
 船を使えれば、短時間で楽に到着できるのに・・・という思いを胸に抱きながら(それぞれ口にしながら)森の中を歩き、午後5時前に伐採道路に出ました。そこからは、小雨のぱらつくなか伐採道路沿いを歩き、ルマ・ジュライヒ(火事で燃えたあとに作られた新村の方)に到着したのは、午後6時過ぎでした。そこで、十分に水分補給したのち、消失した古いロングハウスの方に移動して、リンゴッ氏の仮宅(焼け残った倉庫を改造した家)で一泊しました。
 最後のスサン川からルマ・ジュライヒまでの徒歩移動では予想以上に時間がかかり、今回のエクスペディションで唯一疲れを感じた行程でしたが、それでも、森の中の徒歩ルートがきちんと維持されていて、支流河川の水量も航行可能なくらいに十分にあったとしたら、山越えによる流域間移動はかなり容易なものであったであろうと実感できました。その意味では、かつて存在していた、異なる流域を結ぶ形での社会的ネットワークを再評価する契機として、大変貴重な体験であったと思います。

山越えスアイ・ジェラロン (作成:甲山氏)/Trekking route: Suai River to Jelalong River (Created by O. Kozan)

山越えスアイ・ジェラロン (作成:甲山氏)/Trekking route: Suai River to Jelalong River (Created by O. Kozan)


 24日は、ロングボートで移動し、ルマ・レサとルマ・ウダオに立ち寄ったあと、午後1時過ぎにトゥバオの町に到着しました。トゥバオからビントゥルまでは車をチャーターし、その移動途中でラハップ氏宅によって、甲山氏の設置している流量計のデータを吸い上げて帰りました。
 25日の午前は、ビントゥル・オフィスにて、エクスペディションにも同行してくれたジュラロン・プナンのジュライヒ村長へのインタビュー・セッションを設け、ジュラロン・プナンの歴史や婚姻関係などについて、詳細な聞き取りを行いました。その結果、ジュライヒ氏自身もクジャマンの末裔であることや、それ以外の世帯においても、スアイのプナンはもちろんのこと、イバンやカヤン、バイ・スガン、華人、サンバス・マレー、ブキタン、クニャなど、実に多様な民族との婚姻を繰り返してきたことが分かり、この地域のプナンの「プナン性」について、改めて考えさせられました。
 山越えに参加したジャイル氏は25日の午後にクチンに戻りましたが、入れ替わりにラシッド氏(UNIMAS)がビントゥル入りし、石川氏、奥野氏、祖田とともに、バトゥ・スプルのムスリム・プナンの村に調査に向かいました。26日と27日も、この4人でラバンやビントゥルのプナンやバイ・スガンの調査を行いました。そのなかで、ジュライヒ氏が語っていた、「プナンとバイ・スガンが一緒になってムラナウになる」という言説もあちこちで聞かれ、エスニシティと宗教の複雑さに圧倒されました。また、移動の履歴を聞くなかで、今回のエクスペディション・ルートだけでなく、ジュラロンとスアイを結ぶルートが複数存在していたことや、ブラガあるいはティンジャールへの山越えルートも多様であったことなどが分かりました。
 今回のエクスペディションおよび聞き取り調査では、ラシッド氏はバイ・スガンやプナンのイスラム化過程に、ジャイル氏はジュラロン周辺のプナンやカヤンの歴史などに強い興味関心を示し、今後も継続的な共同調査を行っていくべきことを互いに確認し合えたことは、大きな成果でした。いずれ、多方面からの調査報告がシンクロナイズして、流域社会および流域「間」社会の議論が成熟していくことを期待します。

 なお、柳原氏は26日に帰国しました。エクスペディション道中での撮影は他のメンバー以上に体力を消耗する作業で大変だったと思います。また、ミーティングやインタビューなどの撮影にもご協力いただきました。感謝いたします。他のメンバーの動向としては、ロギー氏が26日からの徳地氏・福島氏らの水質調査に同行してアナップやビニョへと向かい、祖田は27日午後からシブ周辺での河川調査に向かいました。甲山氏はビントゥル・オフィスで今回のルートの地図作成などを行った上で、29日にサラワクを離れインドネシア入りしました。石川氏・奥野氏は28日以降、プナン追跡調査の足を、ミリ省のラポックや、ロング・ラマ、ロング・ブディアン、さらには、その先のセミ・ノマデックなプナンの村まで伸ばしました。9月1日には奥野氏が帰国しましたが、入れ替わりにジャイル氏が再びビントゥル入りして、ジャンバタン・スアイおよびビントゥル周辺で数日間、石川氏とプナンならびにカヤンについての聞き取り等の調査を行うとともに、クチンのサラワク博物館図書室で『サラワク官報』の資料収集を行いました。

 以下に、今回のエクスペディション参加者の感想・コメントを掲載します。



エクスペディションに参加して(ジャイル・ランゴブ)
 今回のエクスペディションの目的は、ミリのスアイ・プナンとビントゥルのジュラロン・プナンとの間の交易関係や社会関係をたどることにありました。今回の移動のルートは、ブルック時代以前に、ブルネイ商人たちによって使われていた2つのルートのうちの1つです。スアイやジュラロンのプナンたちは、近隣で木材伐採やアブラヤシ・プランテーション開発がおこなわれるようになるなか、このルートを1990年代まで使っていました。スアイ側の領域は今やほぼアブラヤシ・プランテーションに転換されており、その部分はランドクルーザを利用しなければなりませんでした。ジュラロン側では、ムルアン川沿いを通って歩くことになりましたが、そこも一部は商業伐採が入っており、元々のルートが失われているところもありました。私たちは、1泊2日の山越えのあと、ジュラロン川沿いの全てのプナン集落を訪れることもできました。

野営のための即席小屋 / An overnight shelter in the woods スサン川付近の歩行ルート
スアイ-ジュラロン間エクスペディションに参加して(奥野克巳)
 このエクスペディションから遡ることちょうど1年前の2011年8月、石川氏と祖田氏と一緒に訪ねたジュラロン川のルマ・ジュライヒで、あるプナンの老人から、かつては、ジュラロンとスアイのプナンは、森のなかを歩いてよく行き来していたのだという話を聞きました。そのときの話が、今回のエクスペディションの企画のきっかけだったように思います。
 歩き始めて二日目の朝、甲山氏のGPS測定で、スアイ側の森の入り口からジュラロン側の船着き場までは直線距離としては8キロだという情報を得た私は、行程はたいしたことないと直感したのですが、存外に、藪こきをしながら進む森の道のりはハードで疲労が溜まり、くたびれ果ててしまいました。いまから思い返せば、私のなかに、精神面での気の緩みがあったように思います。他方で、プナンは、いまでもそうであるように、森のなかではつねにストイックです。勾配のある森を軽々と歩きます。それが、「森の民」の精神性であるのかどうかは分かりませんが、かつて、彼らが使っていた森の道を実際に辿ってみるという今回のエクスペディションは、人とランドスケープの関わりについてだけでなく、人と人の結びつきから生まれる社会の成り立ちを考えてみるときに、私たちに霊感を与えてくれるような気がしています。

小川を渡る 野営小屋を開いた後(2日目の出発)
スアイ-ジュラロン間エクスペディションに参加して(甲山治)
 3か月ほど前に祖田氏からこのエクスペディションにお誘いいただき,地形・地図読みおよびGPS担当として参加しました。日本やヒマラヤでの登山経験はあったものの、サラワク周辺の山はサバ州のキナバル山の登山道だけであり、出発前は地形図から読み取れる情報以上に用心することを心がけていました。イン ドネシアでは不快で歩きにくい泥炭湿地林を主な研究対象としており、それと比 較すると非常に快適でした。地元の若い人であれば私たちと同じルートを3時間 程度で超えていたそうで、かつて2つの流域の生活圏が重なっていたということが実感出来ました。
 なおGPSの情報から、分水嶺を越えてジュラロン川支流のムルアン川のさらに 支流であるブルスカット川の谷筋までは直線的なルートで進み、雨季には船着き場として利用しているムルアン川とスサン川の合流点までも快調なペースで進んだが、それ以降は川筋から少し高い斜面を進んだため少し遠まわりをするルートを取ったことが分かります。おそらく船着き場以降の道はいくつかあるルートの一つであり、他の道も存在すると思われました。

野営地での夕食 野営場所の設置準備
エクスペディションに参加して感じたこと(柳原 秀年)
 映像に携わる者が、人類学研究者と共にジャングルへ入る。撮影者として気になるのは、何が撮れるのか、そもそも撮影は続行できる状況なのか。
 今回、参加したのは、スアイ川上流からジュラロン川上流を足で目指すエクスペデション。アフリカなどのジャングルの経験はあったものの、徒歩で入るのは全くの初めてでした。また、ジャングルの中で夜を過ごすのも。
 私は、カメラを片手に同行しました。常に片手は塞がれた状態。4人の日本人の方や地元の案内役などがいますが、現地の言葉が全く分からない自分にとって、孤独感もありました。
 ジャングルで見るものは全てが不思議なものばかりでした。棘だらけの木。時々、毛のようなものが引っかかっているのを見ましたが、イノシシか何か獣の毛でしょうか。にしても、5cmも10cmもあるような棘で、「この木は何がしたいのか?」疲れが増すごとに腹立たしく思います。耳鳴りのような虫の声。額から汗が流れ目を痛めるごとに、その虫の声にイライラが増します。
 先頭に立ったのは、リンゴさん。かつてこのジャングルを数回、横断した経験者です。パランという刀をブンブンと振り回し、枝を切り、私たちのために通り道を作って進みます。その迷いのない行進には圧倒されっぱなし。太陽もろくに見えないジャングルで、その方向感覚をどうやって維持しているのでしょうか。
 昼過ぎ、早めに行進を切り上げ、今夜の宿を築きます。パランで、1時間足らずで床つきの簡易小屋を構築。ナイフを使って枝に細工をし、あっという間に火を焚きます。
 その場で収穫した魚のスープを調理。基本は現地調達。子供一人分程度の重量になった荷物を背負った自分が情けなく感じました。
 夜は快適そのもの、涼しく虫に悩まされることもありません。疲労でしょうか。自分のいびきで周りの人には迷惑をかけたそうですが。
 朝、甘い珈琲をいただき、再出発。
 ふいに襲って来ためまい。単なる疲れなのか、それとも熱中症?正直、私は、絶対に誰よりも元気に、この撮影を終える気でしたが、弱音を吐いてしまいました。
 足手まといになるものかと思ったものの、「かつて地元の人たちがジャングルを抜けた際には、図らずも病気になった人などもいたかもしれない」と考え、自分で慰めた次第です。僕が病気になれば、それはそれでリアルなジャングル横断劇になったことと思います。これは負け惜しみです。
 水を流す枝を渡されました。喉を潤されます。これほど美味しい水を飲んだことはないと思うほどに、貴重な体験です。
 予定していた船着き場は、乾期のためボートも入ることができないため、そのまま徒歩で川沿いを下ります。
 かつての横断では、どこまでが想定内で、どんな想定外なハプニングがあったのでしょうか。いずれにしても、どんなトラブルでもきっと乗り越えられるエネルギーがあったことと推測できます。
 私の個人的な感想ですが、流域の生活圏の結びつきを体験することが、何かを解明したというよりも、更なる興味や疑問が湧いてでてきた印象です。
 個人的な関心が、より深まり、広がる体験でした。この撮影したフッテージをまとめて、近いうちにご覧いただければと思います。ありがとうございました。

木の枝から水分を補給する 野営地での夕食の準備
結ばれる水系:中央ボルネオ社会の理解にむけて(石川 登)
 二つの(もしくはそれ以上の)水系によって遠く離れた多くの人々が結ばれる。これは親族関係であったり、森林作物の交易であったり、記憶の共有であったり、その形はさまざまである。病気でたくさんの人々が急に亡くなった時の緊急脱出路となったこともあるようだ。水系が結節する空間は多くの場合は分水嶺となっていて、人々は一つの水系から他の水系のあいだを歩いて繋ぐ。
今回実施したジャングル・トレッキングは、その計画の思いつきの度合いやリジットな調査結果よりも何か面白いことを期待するといった意味から、企画立案当初から私たちは「フィールドワーク」より「エクスペディション」という言葉で呼んでいた。頭よりも体を使って感じられるものを大切にしたい、というシンプルな思いから生まれたプロジェクトだった。
 異なる水系を数時間の徒歩でつなぐこと、これを感じることができたのが第一の収穫である。伝聞よりも書物の引用よりも足でかせいだ確かな情報、実感である。第二の収穫は、この調査から考えられるいくつかの議論が、おそらくネットワーク論にとどまらない、中央ボルネオ、さらには島嶼部東南アジアの社会編成に関する大きな議論に拡がる可能性をもつことを確認したことである。

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