カヤン系諸民族の移動性と柔軟性 〜リロケーションの観察から〜

カヤン系諸民族の移動性と柔軟性〜リロケーションの観察から〜
津上 誠(東北学院大学 教養学部)

 サラワク州バルイ川(ラジャン川上流部)のバクン急流より上流に住んでいたカヤン系の村々のうち15村は、1998年9月、バクン急流における水力発電ダム建設に伴い、アサップ川およびコヤン川流域に政府が開いた居住地域(以下では「アサップ」と呼ぶことにする)へと移住した。私は1980年代にこの15村のひとつを長期調査しており、その後は頻繁に訪れることがなくなっていたが、2000年以後、いくつかの科研プロジェクトの一環で、短期間ではあるがほぼ毎年、人々の新生活を見る機会を与えられてきた1
 石川科研プロジェクトでは、バルイのカヤン系諸民族(オランウルと総称されることも多い)がリロケーション前後から今日にかけて生活資源を獲得するために見せてきたさまざまな工夫を記述し、サラワク先住民の生存戦略における柔軟性や移動性2の一例として示したいと考えている。以下ではこのような観点から興味深いと思われた事実をいくつか紹介しておきたい。
せき止められたバルイ川の沿岸に作られた水上家屋。(フヴァット・ライン氏提供)アサップのある村では人々が水没した旧村付近の陸地を視察しに行った。写真は「この村の領域に入る者は必ず○○(村長名)または△△(近辺での滞在が多い人の名)に連絡せよ」との趣旨の警告看板を立てたところ。(フヴァット・ライン氏提供)
 水力発電ダム建設に伴い州政府が提示していたリロケーション政策は、移住先をアサップにすること、バルイにおける世帯数と同じ戸数を含むロングハウス群を各村に提供すること、各世帯に一定面積の農地(ロット3)を与えること、人々がバルイで失なう土地、果樹、家屋等についてはきっちりと補償すること、などから成っていた。
 リロケーションの説明に対して各村は多種多様な反応を示していたが、15村のうち13村はリロケーションに同意することとなった。2村では一部村民がリロケーションを拒否したが、その理由は、政府から提示された補償金が満足できるものではないこと、アサップでの新生活が期待薄であること、などであった。この人々はそれぞれの旧村(今日すでに水没している)からさほど遠くない場所にロングハウスを建て、今も暮らしている。
 人々は移住に先立ち、よりよい補償を得るためにさまざまな準備を進めた。補償金の支払いは、果樹とアミン(ロングハウスの各世帯居住部分を指すカヤン語)については世帯ごとに、二次林地については村単位で、行われることになっていた4。また、各世帯は移住先においてアミンとロット(最終的にはわずか3エーカーとなった)をひとつずつ受け取ることになっていた。各世帯はバルイにおける果樹本数を増やすとともに、アミンを新設することによって帳簿上の「世帯分け」を進め、アサップにおけるアミンとロットをより多く確保することに努めた。帳簿上の世帯数は実質世帯数を大きく上回ることになり、アサップにおける各村の佇まいはバルイ時代と比べると巨大なものとなった。移住後はアミンを隔てる壁があちらこちらで取り払われた。
 補償金をめぐって人々と州政府は化かし合いをしてきたような感がある。例えば、バルイのアミンの補償をめぐっては別の問題もあった。各世帯はアサップで新アミンを引き渡される際、この新アミンは無償ではなく買い取りであり、バルイのアミンの補償金は新アミンの代金を差し引いてしか受け取れない旨を記した書類が用意されており、署名を求められた。人々はそんな話は聞いておらずとまどったが、とりあえず署名だけはし、アサップでの住み家を確保した上で、以後長年に渡り不服を表明し続けた。州政府は最近になってこの主張を受け入れ、アサップのアミンは無償となった。アサップ住民の側に不満を残したケースも枚挙にいとまがない。補償額算定のためのサーベイで果樹の本数を概算しかしてもらえず、満足行く補償金が支払われなかった事例、1958年以後に州政府に申請することなく拓かれたジャングルはNCR(Native Customary Rights)下の土地にならないとする州法が適用されたため、長年耕してきた土地やそこに植わった果樹が補償対象にされなかった事例などがある。
 アサップに移ってからしばらくの間、誰もが語っていた不満は、肉、魚、燃料、水、木材などがほとんど自給できず、お金で買うしかないということであった。電化製品に頼る限り電気代を払わなければならないこと、車がなければちょっと遠方に耕作に出かけるのにも運賃を払わなければならないことも、不満の種であった。このような違和感はその後なくなっていったのかと言うと必ずしもそうではないようで、およそ全ての支払いというものについて逃れられるものなら逃れようとする態度は変わっていない。肉、魚、燃料、水、木材、移動手段などは本来自らの手で調達するものだとする感覚は今でも多くの住民に健在であり、そのことは後述のように、人々が旧村付近に戻った時に見せていた満足そうな様子にも、よく現れていた。また人々は水道代金の請求については徹底的に無視を続けているし5、上述のように新アミンの代金支払も拒否し続けたのである。
 世帯によって受け取り額に差はあるものの、多くの人々はリロケーションに伴う補償としてこれまで手にしたことのないような大金を入手することになり、しばらくの間、買い物ラッシュが続いた。ビントゥルーの船着き場付近にある1泊40リンギのホテルはアサップ住民なじみのものとなり、周辺にはいつもアサップ住民が誰かしらうろうろする光景が見られた。しかし多くの人々の買い物は堅実であったと思われる。高額な買い物としては車、より安価なものとしては、オートバイ、冷凍庫、冷凍冷蔵庫、電気釜、ガスコンロ、洗濯機、ビデオCDプレーヤー、テレビ、オーディオセット、応接セットなどがあった。現地交通が陸路となったこと、近場での狩猟や漁労が難しくなったこと、フルタイムの電力供給があること、川が近くにない代わりに水圧の安定した水道が引かれていることなどからして、これら商品の多くは必需品だったと言ってよいだろう。
 さて、アサップに移住した人々が最初にした生産活動は、州政府が望んでいたようなロットにおける換金作物栽培ではなく、アサップ周辺のロット外の土地(州有地やロギングライセンス下の土地)における焼畑耕作であった。カカオ等の果樹を植えておき、あわよくば将来、伐採会社から賠償金を得ようとする意図もあったというが、そこには何よりも、バルイでの生活と同様に焼畑陸稲耕作を将来にわたって続けようとする意思が働いていた。こうして移住当初のアサップ周辺におけるロット外地には「土地獲得競争」の様相が見られることにすらなった6。州法レベルで考えるならば何の法的効力もない競争なのだが、焼畑耕作について州政府や伐採会社が特に強い規制をかけてくることのない状況下において、「土地は拓いた者のものになる」という旧来のローカルな土地法は人々の間で有効なものであり続けたのである。
 ロット外での焼畑陸稲耕作ラッシュは、しかしながら、移住後数年したら下火になり、人々は各自のロットでの焼畑耕作と、その跡地におけるカカオとコショウの栽培を、本格化させていった。その間、伐採会社は(アサップの人々が焼畑に使用した土地を含む)ロット外の周辺地の多くをアブラヤシのプランテーションに造成していった。そしてさらに時間が経った今日においては、アサップにおけるカカオやコショウの育ちにくさがはっきりしたこともあり、多くの世帯が農耕活動をロットにおける(場合によってはロット外の州有地における)アブラヤシ栽培にシフトさせ始めている。因みに、もしアサップの人々がアブラヤシ栽培だけで食べていこうとするのであれば、現在の3エーカーというロット面積では十分でない。しかしロット外の周辺地の多くは既に伐採会社のアブラヤシ・プランテーションあるいはその予定地になっており、州政府にとりアサップ住民のロット用地不足の問題は八方塞がりになっているようである。
アサップの村のロットではアブラヤシ栽培が盛んになりつつある。バクンダムのすぐ上側にある船着き場。アサップの人々が各自の旧村付近に行く場合、ここまでは車で来て、その先はモーターつきボートを使う。
 アサップの人々の歩みを大まかに見てきたが、その様子を思い切ってまとめてしまえば、長期的な視野に立って気長に事業を営んでいく態度であるというよりはむしろ、手近なチャンスに小刻みに飛びついていく態度であると言ってよいだろう。悪く言えば行き当たりばったりのそのような態度の根底には、生存に関するある種の楽観的な読みがあるように感じられる。
 アサップは、人々が嘆くとおり、お金がないと何も手に入らない場所だ。それなのに周辺のアブラヤシ・プランテーションは働き場所としてはあまりに賃金が低い。多くの親が子に望むのは、学歴をつけ都市部で安定した給料で暮らせるようになることだが、そうなれる者も沢山はいない。なるほど、男性は低学歴であってもまだ伐採の続く奥地のキャンプで比較的よい給料を望むことができる。また、ロットで稼ぐことに希望がないわけでもない。カカオやコショウは期待を裏切ったが、アブラヤシには期待できそうである。狭いロットなので額は限られるが、安定収入にはなりそうだ。このようによい話もある。しかしだからといって、彼らの置かれた状況に不安要素がないとはとても思えない。そういう彼らを楽観的にさせているものは何なのだろうか?
 最近の観察の中で私は彼らの楽観視の彼らなりの根拠を見いだせたような気がしている。それは他でもない、彼らが長年暮らしてきたバルイの地である。
 2010年の終わり頃、バルイ川がダムでせき止められた結果、いよいよ水位が上昇してくると、アサップ各村から多くの人々が各自の旧村付近の沿岸に舞い戻り、水上家屋を仮住まいにして、水位上昇を利用した商業伐採を始めた。発電機と冷凍庫を水上家屋に置き、魚や肉を貯蔵して都市部に売りに出る者も現れた。2012年からは焼畑をしに戻る者も目立つようになった。焼畑をしたジャングルは伐採会社がかつて部分的な伐採を行っていたジャングルではあるが、天然林であることに変わりはなく、陸稲の収穫は予想通り見事なものとなった。
 このように、移住後15年経った今でも人々はバルイの民であることをやめてはいなかったのだ。彼らは公式的には自分たちがバルイの土地を政府に対して放棄したことをよく承知している。しかしそこは依然としての彼らの場所であり続けている。これは先に見た、ローカルの人々の間に、州法とは別レベルの話として、旧来の土地法が生き続けていることと同じである。アサップ各々の村にとり、バルイのかつての自村周辺の広大な土地は、いざとなれば肉、魚、燃料、水、木材、そして耕作地までも独占的に調達できるテリトリーとして、理解されているのである。
バルイ川一支流の沿岸地域に拓かれた、2012年の焼畑跡と2013年の新焼畑。数世帯の焼畑である。 焼畑に作られた出作り小屋でくつろぐ人々。
 ただし彼らはバルイに帰ろうとしているわけではない。2013年9月に私は2度目のバルイ沿岸訪問を行うことができたが、このとき現地で遭遇することができた馴染みの夫婦は、最近作ったばかりの焼畑脇の出作り小屋で、私に非常に印象的な話をしてくれた。「なるほどここでの生活はよい。陸稲の収穫はびっくりするほどよかった。魚や肉に困ることもない。しかしここに来るのに使うガソリン代は馬鹿にならない。そしてアサップには私たちのアミンがある。ロットにはアブラヤシが植わっている。アサップには学校や医療施設もある。私たちはここに住みつくつもりはないし、毎年ここにくることもないと思う。」彼らはアサップの拠点を手放す気など全くないのだ。
 ただし、この夫婦がつけ加えた次の話は聞き逃すべきではないだろう。「バルイに作ったこの拠点は、子どもや孫が一緒に遊びに来ることができるような場所として、確保しておきたい。」遊び場を確保するなどと言っているが、もし単なる遊び場なら、ガソリン代を費やしてやって来、焼畑をし、果樹を植え、出作り小屋を建てまでするはずがない。彼らがここに来てやっていることは、彼らの生存戦略の一環としての拠点作りに他ならない。簡単に言えばこの地は、いざとなったときに生き延びるための拠点なのである。
焼畑(同上)の脇に浮かぶ水上家屋。 焼畑に作られた出作り小屋。
 もっと一般化して述べるならば、アサップの人々のリロケーション後の生活に対する楽観的とも言えるような態度は、彼らの高い移動性や柔軟性を前提にした生き方に根ざしていると言ってよいだろう。彼らがバルイの旧村付近に舞い戻り小さな拠点を作ることを最近始めたのも、古い生活への回帰なのではなく、ひとつの場所に固まらず、生存の様々な可能性を確保しようとする、彼らの戦略の一環であると捉えた方が適切である。そして、そもそも彼らがかつてリロケーションの話を聞かされたとき比較的簡単にそれを受け入れたことも、リロケーション後の生存可否に関する彼ら独自の読みから来ていたのだと理解すべきだろう。
出作り小屋の脇に作られた竈。 出作り小屋に滞在する夫婦が出してくれた立派な夕食。魚、数種の野菜、米、水、そして調理に使った薪も、すべて現地調達である。ただしアサップからしっかりプロパンガスを持参しているところが興味深い(写真後方)。
 彼らの生存様式を許容するような外的条件がいつまで続くかどうかはわからない。しかし少なくとも今のところ、彼らの読みが大きく外れていないことだけは確かなのである。

脚注
1 今回とは別の角度から行った観察については、津上2005を参照されたい。
2 この問題を提起した論考としてはISHIKAWA 2010がある。
3 英語の名詞lotがそのまま行政用語として採用され、現地語でも使われるようになっている。
4 村単位で受領した二次林補償金を村民間でどう分けるかは各村に委ねられた。
5 水道代支払い免除の話はまだ聞かれていないが、かつては定期的に届けられていた請求書が今では届けられなくなっているという。
6 多くのカヤンはこの様子を“pehile’ tana”と述べていたが、これは通常の焼畑耕作初期に見られる土地獲得競争を指す表現である。

参考文献
津上誠2005、「オラン・ウル~バルイ流域民の現在から~」
 林行夫・合田濤(編)『講座・世界の先住民族~ファースト・ピープルズの現在~第2巻:東南アジア』
 明石書店pp.307-323
ISHIKAWA Noboru 2010, The Social Resiliency of High Bio-mass Society: A Historical Analysis. TSUGAMI Makoto (ed.)
 Report on Perceptions of Natural Disasters among Peoples of Sarawak.
 Tohoku Gakuin University. pp. 22-41

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