1980年代後半のJelalongウォーターウェイ

1980年代後半のJelalongウォーターウェイ
Logie Seman (元マレーシア・サラワク森林局)

 Jelalong川の景観は全般的に言えば、低い丘陵地帯を背後に持ち、河畔林と泥炭地で構成されている。この流域社会はカヤン、プナン、イバンのほか、少数の華人などから構成されており、各民族グループ間の婚姻関係もごく普通に見られる。1980年代後半の時点で、Jelalong川流域には、支流のKebulu川沿いも含めて、14のロングハウスが存在しており、下流域には3つの大きな貯木場があった。水道供給のような生活アメニティがないところなので、河川は、飲料用の取水、水浴び、洗濯などの場であった。当時は、桟橋のところに、「ハンギング・トイレ」(イバン語ではagu di tebing sungaiと呼ぶ)がたくさん見られた。各村に通じる道路はなかったので、河川は物資運輸路や農地へのアクセス手段、漁労の場として利用され、まさにウォーターウェイというべきものであった。
Kemena川から見たBiutulu市街 / The cityscape of Bintulu from the Kemena River Kemena川下流の橋 / A bridge in the lower curse of Kemena River
 分水嶺、上流域、中流域ともに、木材資源に恵まれており、それらは商業的価値を持つものであった。猛烈な雨が降ると、Jelalong川の両岸が洪水氾濫にみまわれるが、川岸の木を切って、筏で下流に運ぶためには、ちょうど良い機会となった。丸太の筏は、10馬力ほどの船外機付きロングボートを使って牽引することが多かった。乾季においても、若干の木材が伐採された。それらはチェーンソーで製材して、運搬しやすいサイズに整えられた。そして、河岸に持ち運ばれて、そこから外部へと売られていくことになった。丸太の筏はロングボートでけん引されて、下流の製材所に持ち込まれたが、チェーンソーで製材した木材は、発動機艇(ポンポン船)に載せられて下流へと運ばれていった。こうした河畔林での伐採は、村人たちにとっては、手っ取り早く現金が得られる方法で、彼らの主要な収入源にもなっていた。
Tubau下流のSamling Camp / Samling Camp located below part of TubauTubauでの宴会_EngkasuのイバンLahap氏(中央)、Rh.AnyiのカヤンLasah氏(右)の姿も見られる / Party scene at Tubau - an Iban of Engkasu, Mr. Lahap (center),  a Kayan of Rh. Anyi, Mr. Lasah (right) can be seen
 河川流域社会にとって、漁労は、現在に至るまで、販売用としても自家消費用としても、非常に重要な活動である。イノシシやシカなどを主な対象とする狩猟や、籐をはじめとする森林産物の採集なども、現地住民が行ってきた生業活動である。なかには、木材伐採キャンプで木を切る仕事をする者もいた。ほかにも、学校の専属ボート・ドライバーや、トラックのドライバー、伐採量計測員、筏乗り、その他のブルーカラーの仕事に就く者たちがいた。
 ロングハウスの桟橋付近では、5馬力か10馬力、あるいは15馬力くらいの船外機を付けたロングボートを数多く見かけることができた。それらの船外機のほとんどは、ヤマハ製かマーキュリー製であった。ロングボートの「モータリゼーション」は、各世帯にとっては、外部世界との連絡手段や運輸交通の形態として、必要不可欠なものとなっていた。また、Jelalong川とTubau川との合流点に位置する小規模市場町Tubauで買い物をするにしても、船外機は重要であった。
建設中のTubauの桟橋(1988年) / A landing bridge under consturuction, Tubau (1988)建設中のTubauの桟橋(1988年) / A landing bridge under consturuction, Tubau (1988)
 上流地域の人々にとっては、Jelalong川を航行するのは困難かつ危険であった。というのも、木の切り株や、上から落ちてきた木の枝、その他の河床残存物などの存在があったからである。雨季になると水量は増え、必然的に、技術の高いロングボート・ドライバーは、ボートを巧みに操ることができた。とくに、角度の急な蛇行部分などは腕の見せ所であった。雨季になると、時には、木材関係で儲かることもあった。
 当時は、Jelalong川では荷船やタグボートが数多く往来し、貯木場から木材を運搬していた。そのころは、企業による木材伐採は、割り当て制度による量的制限を受けていなかったので、貯木場には大量の丸太が山積みになっていた。ハイパワー・エンジンのタグボートを使って、下流まで丸太を運ぶということもあった。客船用のエクスプレス・ボートはJelalong下流域のリンブナン・ヒジャオの貯木場までしか運航していなかった。そこは、現在のRumah Wan Usin(カヤンのロングハウス)が建っているところである。
1989年Tubauで開催された世界森林デーで植樹をする故Penhgulu Anyi氏 / Late Mr. Penhgulu Anyi planted a commemorative tree on International Day of Forests at Tubau in 1989森林局職員のTubau 宿舎 / The staff quarter of Sarawak Forest Department at Tubau
 多くの人々が船外機やチェーンソーを必要とし、所有するようになったことで、新型機械も含めた各種機械や部品の修理メカニックをしていたAh Laiという名の潮州華人などは、ほんの数年の間で金持ちになった。その当時、木材とその関連による収入効果によって、地元住民たちの所得も向上していたのである。
 20世紀以降のサラワクの集落を見ていると、河川は、集落やロングハウス、小規模市場町などが立地するための自然的特徴を強く持っていたといえる。Jelalong川もその例外ではない。いくつかの高級商品を含む森林産物は、他のコミュニティとバーターで交換されており、そのことが、まだ道路のなかった時代のJelalong川で河川運輸を活発化させていた。今日でも、Jelalong川は通信連絡と物資運輸の手段として使われている。
1980年代末のJelalong川下流_後方にエクスプレス・ボートが見える / Lower part of Jelalong River in the late 1980s - An express boat can be seen in the backgroundRh. Anyiの古老の女性 / An elderly woman of Rh. Anyi
翻訳:祖田 亮次

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