アナップ川流域の村落調査の報告: イバンとブカタンの移住史を中心に

アナップ川流域の村落調査の報告: イバンとブカタンの移住史を中心に

加藤 裕美 (京都大学 白眉センター/東南アジア研究所)
鮫島 弘光 (京都大学 東南アジア研究所)
市川 昌広 (高知大学 農学部)


はじめに
 本稿は、2011年8月23日から25日に、市川昌広、鮫島弘光、加藤裕美でおこなった、アナップ川流域の村落調査の報告である。この調査では、市川、加藤 ともにこの地域を訪れるのが初めてであるため、アナップ川流域のおおよその概況を把握することを目的とした。 本稿では、調査時の行動記録と、村でインタビューをした内容を抜粋して報告する。インタビューをおこなったの は、アナップ川上流のRh. MawangとRh. Entri、アナップ川中流のRh. Gerina、Rh. Banda、Rh. Jatun、タタウ川下流のRh. Jalongである(図1)。Rh. Mawangと Rh. Entri、Rh. Gerinaはイバンがマジョリティのロングハウスである。Rh. BandaとRh. Jatunはブカタンがマジョリティのロングハウスである。Rh. Jalongはタタウとイバン が混住するロングハウスである。
 調査では、全村を通して統一的な情報を得ることを心がけた。インタビューの際に聞いたのは、移住の経緯、かつての森林産物交易の状況、現在の在村状況、生業活動、インターマリッジの状況などについてである。また、狩猟や野生動物の生息状況についてもインタビューを行った。以下では、調査を行った各ロングハウスのおおよその概況を示したい。紙面の都合上、すべての内容を記すことはできないため、本稿で述べきれなかった情報は、別稿に記したい。

図1: 調査地の位置

図1: 調査地の位置


Rh Mawang (NangaTakan)
 Rh. Mawangでは、市川と加藤を中心に移住の歴史 や森林産物交易についてインタビューを行った。鮫島は、 狩猟や動物についての聞き取りを行った。
 生業としては、稲作と狩猟が盛んである。稲作は、陸稲しか育てていないが、毎年十分な収穫に恵まれている という。また、このロングハウスでは、Zedteeの施業区域内にあることもあって、1992年からZedteeで働く人が多い。 現在、全体の75% ほどがZedteeで働いている。それ以外にもRimbunan HijauやShin Yang、Samlingなどの 伐採会社で働いている人も少数いる。町で働く人はあまりおらず、在村世帯も多い。
 狩猟については、イノシシは一年で40頭ほど取れ、 スイロクは一年で20~40頭とれる。ホエジカは一年で 20頭ほどとれる。ブタオザルは、bubungという箱罠によく引っかかるとのことであった。Rh. Mawangの人々が認識しているイノシシの種類は4種類ある。 また、ホエジカは4種類、スイロクは3種類、マメジカは2 種類を認識している。Rh. Mawangの人たちが認識する各動物の 種類は表1に示すとおりである。

表1:Rh. Mawangの人たちが認識する動物の種類

表1: Rh. Mawangの人たちが認識する動物の種類


アナップ川上流におけるイバンの移住史
 アナップ川上流にある5 村(Rh. Mawang, Rh. Entri, Rh. Belong, Rh. Sayong, Rh.Gasah) は、もともとRajang川の支流、Kanowit川上流のJulauにある、Rh. Assanから移住してきた(図2)。1947年頃に移住してきた。 移住に際して、Sibu の行政官にお願いし、許可を得てきた。移住前のロングハウスはJulau川上流の、Nanga Julauのバザールから15馬力の船で15分ほどの距離に 15世帯があった。Julauではゴムを掻いて生計を立てていたが、当時の価格はRM0.20/katiと安く、骨が折れた割にはあまり儲けがなかった。また村の周囲がすべて稲作二次林(temuda)になってしまったため、未開墾でイノシシや魚が獲れる森を求めてここに移住してきた。
 村長のMawangさんは、まだ未婚の1964年ごろに移ってきた。移住の経路はカノウィット川を下りRajang川に出て、Rajang川を遡りカピットで船の中で1泊した。翌日Rajang川をさらに遡りPelagus川に入り、Pelagus川 の上流のIran川にあるRh.Massam で1泊した。その後Iran川のさらに上流にあるDapu川から荷物を担い で6時間歩き、峠を越えてアナップ川の今のロングハウスよりも少し下流にあるKilong川に出てきた。当時、それ以外にも移住してきていたイバンがいたが、彼らは許可を取らずに隠れて移住してきたので、のちにPila川や Julau川へ再移住した。
 1960年代には、今よりも下流のRengas川(Kilong川 の河口の対岸) にヤシの葉を屋根に使ったロングハウス を建てて住んでいた。アナップ川上流ではブカタンが一番先に住んでいた。Rh. Mawangの人たちが移住した当 時は、焼畑を作り、ラタンやエンカバンをカピットに売りに行って生活をしていた。当時は、Julauから全部で20世帯が移住してきたが、その後もSarikeiから2~3世帯、Saratokから4~5世帯、Skrangから4~5世帯、 Assan(Sibuの少し上流) から7世帯と徐々にイバンが 移住してきた(図2参照)。
 1973~74年には、政府は華人の共産主義者の根拠地となることを恐れてアナップ川上流の居住を禁止し、住民はOya川の中流にあるSekuau川に短期移住(group resettlement) をさせられた。Sekuau川にはアナップ川 上流からだけではなく、KapitやBintangor、Bedukなど様々な地域から人が集められた。1974年にはSriamanの行政官が華人の共産主義者を集めて木材伐採や学校建設などのコントラクターとしてのライセンスを与えた。その結果、1975年には、政府による短期移住が終わり、アナップ川上流に戻ってきた。そして、再びラタン やエンカバンを探しカピットで売って生計を立てていた。 1970年代にはタタウから華人がエンカバンを買いに来ることもあった。タタウの旧バザール(pasar lama)に住んでいる華人である。最近では2009年8月にエンカバン の花が咲いた。2010年3月4月に実がなり、この村では 全戸がエンカバンの実を集めたが、値がつかなかった。
 1976 年にRh.Belong が、そして1978年にはRh. Gasah がこのロングハウスから別れた。その後さらに、 Rh. GasahからRh. Sayongが分かれた。以下のRh. Entriを含めて、アナップ川上流の5 村は出身が同じなので村の境界は特に定めていない。
 Rh. Mawang からNanga Dakat を下った右側には、ブカタンが1920 年~ 30 年ごろに住んでいた時の墓がある が、見逃してしまう。また、Rh. Enteriの近くには、Pemali Bukit Tugongという場所がある。ここは、19 世紀半ば(James Brooke が統治する前)に18~20人のKenyah がBaramから戦闘に来て、イバンと戦って死んだ時の墓 である。Bukit Tugong は、かつてKenyahが使っていた 戦闘路である。そこを通ってRajang川のMerit, Kanowit, Belaga, Pelagusなど様々な場所へ通じていた。現在 Bukit Tugongを通るときには慰霊のために木を置いてい るとのことであった。

図2: タタウ川周辺の河川

図2: タタウ川周辺の河川


写真1: Rh. Mawangの前を流れる清んだAnap川で、夕方遊ぶ子供たち / Photo1: Children playing in the clear water of Anap River running in front of Rh. Mawang 写真2: Rh. Mawangの村長とインタビューに協力してくれた方々と / Photo2: A snapshot with the residents and the headman of Rh. Mawang
Rh. Enteri (Nanga Takan)
 市川と加藤で世帯調査を行った。かつてJulau川に いたときは、Rh. Assanといい、上記のRh. Mawangと 同じ村であった。移住後、アナップ川においてもRh. Assanといった。現在Rh. Enteriの外では屋根に使うヤ シの葉を干していた。また、ロングハウスにはコショウの 精製機が置いてあった。コショウは、2004年には政府の プロジェクトによって全世帯が1000 本以上植え、1500kg ほど売った。しかし、3年目に病気で枯れてしまったとい う。稲作は、Rh. Mawangと比較するとあまり盛んではな い。また、Zedteeで働く人の人数も少なく、その分都市 で働く人が多い。かつては、エンカバンの採集が盛んで あった。最近では、2010 年にはエンカバンの実がなり、 油は自家用に保存してあるとのことであった。
 アナップ川上流では、小学校はRajang川流域の Pelagusへ行き、中学校はカピットへ行く人が多い。 Pelagusの小学校は1975 年にできた。ここの村ではア ナップ川上流に小学校がほしいと思っているが、全部で 60 世帯しかないので作ってもらえない。Pelagusの方が 人がたくさん住んでいるのは確かだが、彼らは教育熱心 ではない。実際にPelagusの小学校にまじめに通ってい るのはアナップ川上流から来た子供ばかりである。この 村出身でカピットに住んでいる人もいる。タタウへ行く人も 少ないがいる。総じてアナップ川上流はタタウよりもカピッ トのほうがずっとつながりが深いと言える。
 アナップ川上流では、他に、Rh. Bilongも在村世帯 の多いロングハウスである。Rh. SayongとRh. Gasah は もともと世帯数の少ない村であり、在村する世帯数も少 ない。Rajang川流域からアナップ川上流へのイバンの 移住は近年まで続いている。最近では、1983 年にRh. Mancha がRajang川支流のPila川から移住してきた。 しかし、その後相次いで人が亡くなり、ある1 家全員が亡 くなってしまった。「土地が熱い」との理由で、下流に再移住している。

Rh Gerina (Nanga Malat)
 古いが、たくさん人のいるロングハウスであった。村長 に現在の生業、ロングハウスの歴史、狩猟についてイン タビューをした。また、加藤はジェイソンから頼まれた塩 場のインタビューをした。
 この村の人たちは、もともとMukah川の支流 Selangau 川から移住してきた(図2参照)。1941年にMukahから 1回目の移住があり、1959 年に2回目の移住があった。 Mukahでは当時は30 世帯が暮らしていた。Mukahでは 米があまり取れなかったため、イノシシやシカを求めてア ナップ川に移住してきた。Mukahから船に乗ってタタウに つき、タタウから手漕ぎの舟でここにやってきた。移住し てきた当時、ブカタンはすでにアナップ川中流で2 村に 分かれていた。1940~50年代は、コメを作り、手漕ぎ の舟でダマール、ジュルトン、ラタン、イノシシ、魚をタタウに売りに行っていた。4 日かけてタタウに売りに行き、5日かかけて村に戻ってきた。1980 年代には、当時村に いた大多数がKuala TatauにあるRh. Nyalo(30世帯) へ分裂して移住した。当時、この場所に残ったのは6世 帯のみである。しかし3年後に5世帯が帰ってきた。現 在は、23世帯あり、全世帯に人がいる。
 このロングハウスでは稲作と狩猟が盛んである。全戸で 陸稲を育てている。水稲を栽培したことはない。陸稲は、 時々十分に収穫できるが、不作の年もある。狩猟につ いては、イノシシ、スイロクともに1年で30匹ぐらい獲れ、 ホエジカはあまり獲れない。犬を連れて猟銃で狩猟をす ることが多く、罠を仕掛けることは少ない。イノシシの肉 などは、自家消費にすることが多い。その他、Zedteeや プランテーション会社で働く人が数人いる。
写真3: Rh. Gerinaへのアプローチ、川岸から非常に長い桟橋が続く / Photo3: A long and steep wodden deck connecting the river bank and Rh. Gerina
Rh. Banda (Kerangan Paji)
 市川と加藤で各世帯の生業状況や、伐採会社との関 係についてインタビューをし、鮫島は動物名のインタビュー をする。また、ブカタンのアナップ川での移動、分裂の 歴史や森林産物交易の歴史についてインタビューする。 ラタン製品の作成が盛んなロングハウスである。ロングハウスの至る所に、加工途中のラタンおいてある。このロングハウスでは、稲作に従事する人の他に、伐採会社や 町で働く人も多い。また、キリスト教ではなくイバンの在来信仰に従う人が多い。

アナップ川中流域におけるブカタンの移動史
 ブカタンの歴史は、カプアス川にさかのぼる。カプアス川からサラワクに入り、カノウィットで長らく暮らしていた。 カノウィットからは、Selangauへ移動した人たちもいた。1集団はカノウィットに残り、もう1集団はPelagus1 を経由 してアナップ川上流のTakanにやってきた。Takanでは 長らく住んでいたが、James Brookeの頃に政府に下流に 住むように言われ、アナップ川中流のMalat 川河口に移住した。Tuan Ot とTaun Inyi2 が治めていた頃である。 その後、再び政府に言われ、Paum 川の下流に移住した(図3)。

図3: Anap川中流のブカタンのロングハウス周辺の地図

図3: Anap川中流のブカタンのロングハウス周辺の地図


 アナップ川中流域におけるブカタンの移動史は以下 のようである。19世紀後半には、Meraingが率いて、 Paum川河口に15世帯ほどで暮らしていた。その後 Asai の頃にPalung川に移動した。Asai はAbang cai3 が統治していた頃に10年ぐらい率い、1944年に死亡した。 1944年にはBeruang Gawan が引き継ぎ、18世帯から なるブリアンのロングハウスで暮らした。その後2村に分 かれる。下流のNanga Pelawan では、Beruang Gawan が率い、10世帯が暮らした。上流のKerangan Pajiは Lantai Jabanが率い、8世帯が暮らした。これが現在 のRh. JatunとRh. Bandaの前身である。
ロングハウスの跡地のことをブカタンではtevaweiという。 これまで住んだことのあるtevaweiの場所は表3に示すと おりである。

表3: アナップ川中流におけるブカタンのtevaweiの位置

表3: アナップ川中流におけるブカタンのtevaweiの位置


 Asai 村長の頃(1940年頃) にはラタン、ダマール、 エンカバンを採ってタタウの華人に売っていた。コメは 育てたが少ししか収穫できずサゴヤシを食べることが 多かった。当時食べていたサゴヤシは4種類Jimako、 Aping、Bulung、Balouであった。昔は全世帯がラタン からマットを作って売っていた。
 伐採会社が操業を始めてからは、動物の量は減った。 イノシシは1年に1匹とれるぐらいで、スイロクも同じぐら いである。ホエジカはあまり取れない。狩猟方法は、昔 は投槍を使い、今は猟銃と罠猟を使う。この日の夕ご飯 には、その夜獲れたマメジカのスープをいただいた。
写真4: Rh. Bandaでマメジカのスープを食べながら夜のインタビュー / Photo4: During the interview, the residents treated us to taste the soup of Lesser Malay Mouse Deer 写真5: インタビューに協力してくれた方々と / Photo5: A snapshot with the residents who cooperated us wtth the interviews
Rh. Jatun (Nanga Pelawan)
 村長はタタウに行って不在であるため、ロングハウスの 人に商品作物栽培と、伐採会社との関係について聞き 取りをする。鮫島は数世帯からイノシシの骨を採集した。 市川と加藤は世帯調査をおこない、他の民族集団との婚姻関係についてインタビューをおこなう。
 このロングハウスでは、稲作の他に伐採会社で働く人 や町で働く人も多い。稲作は、陸稲のみで、いつも十分な収穫が得られる。また、Rh. Bandaと同様に、Rh. Jatunにおいてもラタン製品の作成が非常に盛んである。 ラタンはロングハウスの裏の丘からとってくる。狩猟では、 猟に犬を使わず、森のなかを歩いて探すとのことであった。 村の後背地にはまだ二次林が多く、そこで探すという。こ こ1週間では4匹のイノシシを獲っていた。
 伐採会社で働く人は30人ぐらいおり、Shin Yang で働 く人が多い。Zedteeで働く人はいない。また、アブラヤシ・ プランテーションで働く人が3人、アカシア・プランテーションで働いているのが1人いる。若い女性は10人ほど が都市の食堂でウェイトレスとして働いている。この村で はオイルパームを植えたいが、種がないので植えられな いという。
 Rh. Jatunよりも上流の村では、他の民族集団とのインターマリッジは、あまり見られなかった。しかし、Rh. Jatunでは他の民族集団とのインターマリッジが比較的 多く、なかでもカヤンと結婚する人がイバンと結婚する人 よりも多かった。またブカタンの村では、他地域のブカタ ンとの婚姻関係もみられる。
写真6: Rh. Jatunではラタンの採集や加工が盛んである / Photo6: At Rh. Jatun the residents collect rattans and use them for various kinds of livingware 写真7: Anap川中流にある滝の前で / Photo7: A snapshot in front of the waterfall along the middle part of Anap River
Rh. Jalong (Nanga Buan)
 タタウの町で市川は空港へ向かい、鮫島と加藤で再 び船に乗り、Rh. Jalongを訪れる。タタウの人たちのロ ングハウスである。タタウの人口減少の昔話、タタウとル ガットの関係、タタウ川流域での歴史、他民族との婚姻 関係についてインタビューをする。また、数世帯から家系 図の聞き取りをする。
 このロングハウスの人たちは、11年前(2000年頃) に このロングハウスに移ってきた。その前は、今よりも少し上 流に18戸からなるロングハウスを建てて住んでいた。い ま、その場所には2世帯しか住んでいない。今の村長は、 1987年に村長になり24年間村長をしている。その前は Li anak Sareが村長をし、7戸が住んでいた。その前の 1947年頃には、Dimang anak Jarap(イバンと結婚した) が村長をし、同じく7戸住んでいた。その前はBeyang が村長をした。ロングハウスは昔から1つだけであった。
 生業活動は多様であり、稲作、ゴム栽培、伐採会社 や都市で働く世帯が多い。稲作は、陸稲と水稲の両方 を育てているが、水稲を植えている世帯の方が多いとい う。また17世帯のうち多くの世帯が最近ゴムを植え始め ている。アブラヤシを植えているのは1 世帯のみである。 苗を育てるのが大変だからとのことである。道ができたら、 ほかの世帯も栽培する予定であるという。このロングハウ スでは、サラワクの他の都市のみならず、半島部や海外 で働く人もいる。タタウにある工場ではインドネシア人しか 雇わない。インドネシア人と同じ給料で地元の人は満足 をするはずがないという。
 イノシシは近くの森で、括り罠で獲ることが多いが、ア カシア・プランテーションでも獲る。アカシア林は樹齢 が若い頃はイノシシはいないが、成熟して実をつけるよう になると、この実をイノシシが食べるので、イノシシが来 るようになるという。
 タタウの人たちによると、Tatau語はLugatとMelanauの言葉に近いという。SekapanとKejamanとLahanan の言葉とは少し遠いという。このロングハウスの人たちは 他の民族集団とのインターマリッジが非常に多い。Iban が多く、Bekatan、華人、Punan、Kenyah、Melayu、 Segan、Lugatなど多様な民族集団と婚姻関係を結んで いる。村長のJalong氏いわく、かつては全員が親戚だっ たので、村の人同士で結婚するのは禁忌にふれた。この ため結婚相手をIbanやPunanなど他の民族集団から 探し、村に住まわせて、村の人口を増やしていったという。

タタウ川流域におけるタタウの人たちの歴史
 Penanがまだ森の中にいたころ、タタウは先に森から 出てきた。タタウの人は昔、サゴヤシであるBulungや Balouを食べて生活していた。コメは食べなかった。昔 住んでいた場所をタタウ語ではuganという。uganは森 の中や、川沿いなど様々な場所にある。  かつてはアナップ川最上流のTakan川やKakus川 に住んでいた。Takanにはタタウの植えたドリアンがま だ残っている。ブカタンがTakanにやってきたのはタタ ウが住んでいた頃よりもかなり後のことである。ブカタン がTakanに住んでいた頃、タタウはPenyarai川に住 んでいた(図2 参照)。タタウがPenyaraiに住んでい た時のロングハウスの柱はまだ残っている。大きなブリ アンの柱である。ブカタンは首狩りをしてRajang川から やってきた。ブカタンがやって来るよりも先に、Punanが Balui川から移住してきた。ブカタンの後にはイバンが 移住してきた。かつて、イバンが首狩りをして人を殺した ので、その時タタウの人たちは川の上流域に隠れて住ん でいた。  昔はタタウの人口は多かった。今でもBukit Bekuyat にタタウの骨がある。昔は、船に乗ってよく行ってみていた。 その骨は大きくて長い骨だった。しかし、Penyarai川に て大蛇を射止めたことなど、度重なる災いにより、ほぼ 絶滅してしまった。この災いのことをpuruという。かつては、 puruという言葉を口にするのさえはばかられた。現在で もあまりこの単語はあまり口にしない。
 タタウの人の墓であるkeliringsalungもタタウ川沿 いの至る所にある。ここから上流に15 分ほど船で行った Rantau Belakには、5 つのkeliringと2 つのsalung がある。Kampung Melayu Tatauの道に入ったところに も昔1つkeliringがあったが、洪水の際に水に浸かっ て倒れてしまった。その他、Rh. Roni(イバン) にも1 つ のkeliring 、Rh. Saban (イバン) にも1つのkeliring 、 Belah川の下流にあるRantau Belahにも2つの keliringがあった。Penyarai川にも5 つのkeliringが あったが、川の中に沈んでしまった。Kuala Tengiliriや Kuala Miskinにもkeliringがあったが、こちらも川の中 に沈んでしまった。これらのことから、かつてタタウ川の 至る所に彼らが住んでいたことが想像できる。タタウの人 たちが大蛇を射止めた後の人口減少の話は、とても興 味深い物語である。ここでは紙面の都合上記載できな いので、別稿に譲りたい。

まとめ
 本稿では、アナップ川流域のロングハウスの概況を示 すことを目的とした。上述したように、各ロングハウスの状 況は多様であり、今回調査をした6 つのロングハウスの状 況をもってアナップ川流域全体に一般化させることはでき ない。しかし、調査を行った各ロングハウスの移住の歴史、 森林産物交易の歴史、基本的な生業に関する概要を把 握することはできた。また、村周辺での開発の様子や他 民族との婚姻関係についても基本的な情報を得ることが できた。
 今回行った世帯調査の結果については、今後Kemena川流域で行った世帯調査の結果と比較検討する予定で ある。また、森林産物交易の歴史については、別稿に記 す予定である。狩猟調査については、盛んに狩猟をおこ なっていたRh. Mawang周辺でカメラを設置し、調査票 への記入と動物の毛のサンプル収集を依頼してきた。調 査結果の一部は同ニュースレターの加藤・鮫島の記事 にも記した。この調査では、各ロングハウスのおおよその 概況を把握することに努めたため、ここで記した内容には 不十分な点があるかもしれない。その場合には、後続の ニュースレターにて、随時情報を更新していただけると幸 いである。

(脚注)
1:先行研究によるとMerit とある。
2:Tuan Ot とTaun Inyi がどういった役職の人物であるのかは、 不明である。
3:Abang cai がどういった役職の人物であるのかは、詳しく聞か なかった。
4:ブカタンの言葉でLaput は川の河口を意味する。
5:ブカタンの言葉でLirung は川の淀みや深みを意味する。

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