「交流の場」としての闘鶏―
―都市移住民の娯楽と文化
「交流の場」としての闘鶏―
―都市移住民の娯楽と文化 祖田 亮次 (大阪市立大学 文学研究科
池田 愉歌 (大阪市立大学 文学部)
1. はじめに マレーシア・サラワク州のイバンにとって、闘鶏は非常にエキサイティングな行事であり、社会的・文化的な意味でも重要な娯楽である。収穫祭などの祭りのときや通夜・葬儀のほか、大規模なイベントの際には、必ずといっていいほど闘鶏が行われる。農村部を訪ね歩くと、イバンの祭りの日でなくとも、祝日にはしばしば闘鶏に出くわすことがある。闘鶏会場では、サイコロやカードによる賭け事も並行して行われ、また、アルコールを含む飲料のほか、焼き鳥や揚げ菓子などが販売されることが多い。近年では、闘鶏会場を取り仕切るのは華人が中心で、イバン以外の民族が参加することも少なくない。仕切り屋のなかには、体中に派手な刺青を入れている者もいて、なかなかの迫力があったりする。 農村部での闘鶏は、特別な日に行う行事という風情で、近隣の村々から大勢の人々が集まってくる。イバンの大きな祭りのときであれば、特別な行事として政府によって闘鶏が認められることもあるが、基本的には非合法の賭け事の場であると考えてよい。ただ、村のなかで行う闘鶏であれば警察に見つかる心配も少なく、闘鶏会場に集まった人々も当該行事の違法性について、とくに気にする様子もない。 一方、都市部においても闘鶏を見ることができる。たとえば、ビントゥルの旧市街から10数km北東にキドロン地区という工業地帯があり、そこに向かうキドロン道路沿いには、数多くのスクウォッター集落が存在している。華人やマレー、ブギスなどのスクウォッター住民も少数存在するが、住民の大多数はイバンであり、これらのスクウォッター集落においても闘鶏が盛んにおこなわれている。私たちが訪ねたスクウォッター集落には、闘鶏の足に装着するブレードを作る職人も複数いた(写真1~2)。 私たちは、ビントゥル在住のイバン男性に誘われて、独立記念日(の振り替え休日)にスクウォッター集落の闘鶏会場に行ってみた。土~月曜日の3連休を使って3日連続で試合が行われていた。私たちが訪れたのは3日目であったためか、前日までよりもエントリー数が少なく午後からの開催となったが、それでも試合開始前の段階でおよそ60名が集まっていた。カードやサイコロを使ったゲームは、闘鶏の試合開始前から行われていた。会場に集まっていた人の多くはスクウォッター住民であるようだが、ビントゥルの市街地からきている人もいるらしい。 このスクウォッター住民たちは、毎週のように場所を変えて闘鶏に興じているという。取り仕切っているのは華人ではなく、スクウォッター集落のイバンである。イバンが闘鶏を取り仕切るのは今どきでは珍しい光景で、かなりローカル色の強い闘鶏会場という感じがした。全体として、賭け金も小さい。スクウォッター住民たちの経済状況を反映しているのかもしれない。 当日の闘鶏会場は、キドロン道路からダート道を入った、やや奥まったところに設営されていた。各スクウォッター集落からやや離れた空き地であるため、参加者たちは車やバイクを使ってやってきている。車はすべて、キドロン道路の出口に向けて止められている。警官が来た時にすぐに乗って逃げられるようにしているのであろう。一方、会場の仕切り屋は、出口に近いところに駐車している車を、もっと奥の方に入れるように参加者に指示している。駐車位置が出口に近すぎると、大通りのキドロン道路からでも人が集まっているのが察せられるため、よろしくないという。同行してくれた地元のイバンは、私たちが調査目的で来ていることを理解しており、「仮に警官が来ても、下手に逃げるのではなく、外国人として知らぬ存ぜぬを貫くこと、調査に来てたまたま闘鶏に出くわしたと言い張ること」と何度も念押ししていた。 その会場で、私たちはたまたまブギスの男性を見つけ、スクウォッター住民として珍しい事例だと思い、試合が始まるまでの時間にインタビューをした。実際に調査をすることで、もしもの時にも言い訳が立つ。その彼は、両親がサバ州に出稼ぎに来ていた時に、そこで生まれ育ったのでマレーシア国籍を持っているが、彼の居住しているスクウォッター集落には、インドネシア・スラウェシ島出身のブギスもいるという。アブラヤシ栽培が盛んな農村部と同様に、ブギスのイバン社会あるいはサラワク社会への浸透が感じられる。 そのブギス男性も、自分の鶏を連れてきていた。私たちは、初戦のブギス対イバンの試合を見た(写真3~4)。インタビューに応じてくれた彼は物腰の柔らかい静かな中年男性で、対する若いイバンはすでにしたたか酔っぱらっていて、妄言を吐き散らし、周囲に散々迷惑をかけていた。多くの人々は(そして私たちも)、密かにブギス男性を応援した。
初戦の試合の出場者は、それぞれ50RMを仕切り屋に出していた(写真5)。敗者はそのまま50RMを失うことになる。勝者は勝利金として受け取る50RMのうちの1割を仕切り屋に納める。一方、この日の賭け主への配当割合は、7:3であった。たとえば、10RMを賭けた鶏が勝利した場合、10RMとその7割の7RMを合わせた17 RMが手元に戻ってくるというシステムである。差額は仕切り屋の懐に納まることになる。試合直前、仕切り屋を通さず個人的に賭ける相手を探す人々も会場の中央に集まり「money, money」「○○RM」と大声を出しうろうろと歩き回っていた。試合が近づくにつれ、人がごった返し、騒然とした異様な雰囲気へと変化していく。そして、試合の結果は、ブギスの勝利であった。 エントリー数の少なかった当日は、試合と試合の間のインターバルが長かったが、皆が警察のパトロールを警戒していて、農村の闘鶏会場とは異なる緊張感が常に漂っていた。闘鶏会場で捕まった場合は、1,000RMの罰金か、1週間の禁固刑に処されるという。私たちもなんとなくそわそわしてしまい、長居は無用と早々に退場することにした。 同じ日の夕刻、空港近くのスガン地区にある大規模な住宅団地にも調査に行った(写真6)。ここは、スクウォッター住民を移転させるために政府が準備した住宅団地で、5階建てのアパートが17棟建ち並び、約1,000世帯が入居している。私たちは、スクウォッター集落からここに移転してきた人々へのインタビューをしようと考えたわけである。現在もスクウォッター集落に居住している人たちのなかには、移転先のアパートでは闘鶏ができなくなるから移転申請はしたくないという人もいた。しかし、スガンの住宅団地に行ってみると、団地の外にあるやや奥まった空き地で、やはり闘鶏が行われていた。 私たちは、団地のゲートの外に建ち並んでいる常設屋台(写真7~8)の一つに腰を下ろし、そこで焼き鳥を売っている中年女性にインタビューを始めたが、一緒に団地までやってきた友人2名は私たちのインタビューには付き合わず、そのまま闘鶏会場に向かった。屋台の女性に闘鶏のことを聞くと、ライセンスが出ているというが、信用はできない。他の人は、「ライセンスはイバンの大祭の時にしか出ない。独立記念日のようなマレー(連邦政府)の行事の時に許可が下りるわけがない」と話していた。 私たちが屋台の女性にインタビューを始めて闘鶏のことなど忘れかけていた時、そこに2台のパトカーがやってきた。今にも停車しそうなノロノロとした動きで、屋台周辺にいる人たちは、そのパトカーを凝視している。「昨日、ここの屋台で酔っ払いが喧嘩をして騒ぎを起こしたから、そのパトロールだろう」という人と、「いや、あれは闘鶏会場を探しているのだ」という人で見解は分かれたが、ともかく闘鶏会場には私たちの友人がいたので、携帯電話に連絡して、すぐに会場を離れるように指示した。その直後、屋台の並びを眺めるかのようにゆっくりと動いていたパトカーが徐々に速度を上げて、闘鶏会場のある丘の方に向けてダート道を入っていった。 あとから聞くと、闘鶏会場の入り口付近で見張り役をしていた男たちの警告で、会場にいた人たちはみんな逃げ惑ったそうだが、結果的に警察に捕まった人はいなかった。パトカーが闘鶏会場に到着した頃、友人たちは裏山を駆け上っていたという。その後、他人の野菜畑を踏み散らかして走り抜け、団地の裏手に回って金網の破れた部分を匍匐前進ですり抜けたあと、いかにも団地から現れたふりをしながら、表のゲートから屋台に向かって歩いてきた。一見澄ました様子だったが、実際にはほうほうの体で逃げてきたようで、白いシャツは汗と砂埃でドロドロになっていた。私たちは屋台に座りながら、裏山を走る男たちの姿をはるか遠くに認めたとき、友人たちの安否を気遣いながらも、実際には腹を抱えて笑っていた。「あそこまで逃げれば、大丈夫だ!」と。そして、屋台に戻ってきた彼らの逃走劇を聞いて、ますます可笑しくなった。 どうやら警官たちは、闘鶏会場にいた人々が逃げ惑うなかで、人間ではなく鶏を取り押さえていたらしい。なかなか会場から戻ってこないパトカーをこっそり見に行った人から聞くと、自分の鶏を取り押さえられた男が、それを返してもらうために「袖の下」をいくら払うかの交渉をしていたそうだ。大金をかけて購入し、筋肉増強剤などの高価なエサを与え、大事に育ててきた闘う鶏を、勝利の誉を受けないままに、あるいは勝利金を得ないうちに、簡単に手放すことはできない。警官も当然それを知っているわけである。人間を捕まえるより、鶏を捕まえる方が「稼ぎ」になる。闘鶏会場にいる人々にとっては、自分が捕まって牢屋に入ることになるか、鶏が捕まってそれを取り戻すために大枚をはたくことになるか、その時の警官の行動次第のようである。 イバンにとって、闘鶏は欠かせない娯楽の一つであり、文化でもある。移転先のアパートに行くと、闘鶏もできないし、畑も作れないし、移転なんかしたくない、と主張するスクウォッターたちがいた。闘鶏用のブレード作りをしていた男は、スクウォッター集落を追い出されたら、故郷のロングハウスに戻るだけだと話していた。たしかに、アパートの立ち並んだ団地での生活は窮屈であろう。部屋は狭いし、たくさん階段を上らなきゃならないし、職場や学校からも遠いし、街へ行く乗合バンの運賃も高い。娯楽も少ないのかもしれない。しかし、アパートに移った人々は、時に警察の「手入れ」から逃げ惑いながらも、移転先で今も闘鶏を続けている。 この住宅団地は政府主導で作られたものであり、ムスリム世帯も一定数含まれているため、団地の敷地内では酒も豚も販売できないことになっている。当然、闘鶏もできない。しかし、団地のゲートを出たところには、小さな屋台が立ち並び、夕方や休日はそこで買い物をしたり、酒を飲み交わしたりする人でごった返している。時には酔っ払いがけんか騒ぎを起こしたりもする。屋台を経営している人も、そこで買い物する人も、ほとんどが団地のアパート住まいである。屋台の裏側の空き地には畑があって、野菜やトウモロコシが植えられている。団地の住民たちが勝手に植えているのである。そして、そこから丘の方に5分ほど歩いてくと、表通りからは見えない窪地に闘鶏会場がある。 同じ形の建物が無機質に並んでいるだけに見えるアパート群だが、そこにも少しずつ有機的なコミュニティができ始めているように感じられた。アパートに転居した彼ら/彼女らは、もともと色々な街を転々としてきた人たちで、スクウォッター集落での居住経験も長い。どこに行ってもそれなりに楽しみながら生きていく術と逞しさを持っている、とでもいうべきであろうか。 警察の手入れからうまく逃れてきた友人たちは、団地のゲートを出たところの屋台に座り、ビールで渇いたのどを潤し始めた。別ルートで逃げてきた男たちが同じ屋台の隣席にいることに気付き、互いの無事の帰還を祝し、握手と杯を交わしていた。まるで戦場から戻ってきた同志のようで、見ていてすがすがしさを感じてしまった。 パトカー騒ぎで私たちのインタビューは吹っ飛んでしまい、闘鶏会場がお開きになったため客も一気に増えたので、屋台の女性はいつの間にか仕事に戻って忙しそうにしていた。インフォーマントを失った私たちは、「そういえば今日は祝日だからねえ」などと言いながら調査を放棄して、焼き鳥でビールを飲み始めた。そして、鶏を小脇に抱えてバイクで猛然と走り去る男たちの姿を見ながら、またしても腹を抱えて笑っていた。鶏を抱えて逃げ果せた人、運悪く取り押さえられた人、それも一つのゲーム性あるいは博打性をもった偶発的な出来事であり、それらの話をネタに焼き鳥を喰らいながら酌み交わす酒は、いつも以上に楽しい宴席を提供してくれる。 都市部での闘鶏会場には、農村と違った緊張感と話題が充満していた。闘鶏は、イバンの祭りの時に行われる儀礼的スポーツとされるが、他地域の人々や他民族との交流の場でもあり続けた。闘鶏会場に華人やその他の民族が混ざっているのも、本来的に不思議な話ではない。農村部での闘鶏会場は、実際のところ華人のチンピラたちに牛耳られてしまっている感が否めないが、スクウォッター集落や住宅団地の闘鶏会場は、イバンが中心となって運営しており、そこにときどきブギスや華人、マレー人も参加する。 サラワク各地から集まってきた「他人」同士のイバンが集住するスクウォッター集落では、このような交流の場は、実は農村以上に重要な社会的意味を持つのかもしれない。しかも、そこにさまざまなハプニングが伴うことで、人々の絆と仲間意識がむしろ強められることもある。イバンの男たちにとって、闘鶏はどこにいたってやっぱりやめられない真剣勝負の娯楽・文化であり、都市における社会関係の形成の場でもあるのかもしれない。
―都市移住民の娯楽と文化 祖田 亮次 (大阪市立大学 文学研究科
池田 愉歌 (大阪市立大学 文学部)
1. はじめに マレーシア・サラワク州のイバンにとって、闘鶏は非常にエキサイティングな行事であり、社会的・文化的な意味でも重要な娯楽である。収穫祭などの祭りのときや通夜・葬儀のほか、大規模なイベントの際には、必ずといっていいほど闘鶏が行われる。農村部を訪ね歩くと、イバンの祭りの日でなくとも、祝日にはしばしば闘鶏に出くわすことがある。闘鶏会場では、サイコロやカードによる賭け事も並行して行われ、また、アルコールを含む飲料のほか、焼き鳥や揚げ菓子などが販売されることが多い。近年では、闘鶏会場を取り仕切るのは華人が中心で、イバン以外の民族が参加することも少なくない。仕切り屋のなかには、体中に派手な刺青を入れている者もいて、なかなかの迫力があったりする。 農村部での闘鶏は、特別な日に行う行事という風情で、近隣の村々から大勢の人々が集まってくる。イバンの大きな祭りのときであれば、特別な行事として政府によって闘鶏が認められることもあるが、基本的には非合法の賭け事の場であると考えてよい。ただ、村のなかで行う闘鶏であれば警察に見つかる心配も少なく、闘鶏会場に集まった人々も当該行事の違法性について、とくに気にする様子もない。 一方、都市部においても闘鶏を見ることができる。たとえば、ビントゥルの旧市街から10数km北東にキドロン地区という工業地帯があり、そこに向かうキドロン道路沿いには、数多くのスクウォッター集落が存在している。華人やマレー、ブギスなどのスクウォッター住民も少数存在するが、住民の大多数はイバンであり、これらのスクウォッター集落においても闘鶏が盛んにおこなわれている。私たちが訪ねたスクウォッター集落には、闘鶏の足に装着するブレードを作る職人も複数いた(写真1~2)。 私たちは、ビントゥル在住のイバン男性に誘われて、独立記念日(の振り替え休日)にスクウォッター集落の闘鶏会場に行ってみた。土~月曜日の3連休を使って3日連続で試合が行われていた。私たちが訪れたのは3日目であったためか、前日までよりもエントリー数が少なく午後からの開催となったが、それでも試合開始前の段階でおよそ60名が集まっていた。カードやサイコロを使ったゲームは、闘鶏の試合開始前から行われていた。会場に集まっていた人の多くはスクウォッター住民であるようだが、ビントゥルの市街地からきている人もいるらしい。 このスクウォッター住民たちは、毎週のように場所を変えて闘鶏に興じているという。取り仕切っているのは華人ではなく、スクウォッター集落のイバンである。イバンが闘鶏を取り仕切るのは今どきでは珍しい光景で、かなりローカル色の強い闘鶏会場という感じがした。全体として、賭け金も小さい。スクウォッター住民たちの経済状況を反映しているのかもしれない。 当日の闘鶏会場は、キドロン道路からダート道を入った、やや奥まったところに設営されていた。各スクウォッター集落からやや離れた空き地であるため、参加者たちは車やバイクを使ってやってきている。車はすべて、キドロン道路の出口に向けて止められている。警官が来た時にすぐに乗って逃げられるようにしているのであろう。一方、会場の仕切り屋は、出口に近いところに駐車している車を、もっと奥の方に入れるように参加者に指示している。駐車位置が出口に近すぎると、大通りのキドロン道路からでも人が集まっているのが察せられるため、よろしくないという。同行してくれた地元のイバンは、私たちが調査目的で来ていることを理解しており、「仮に警官が来ても、下手に逃げるのではなく、外国人として知らぬ存ぜぬを貫くこと、調査に来てたまたま闘鶏に出くわしたと言い張ること」と何度も念押ししていた。 その会場で、私たちはたまたまブギスの男性を見つけ、スクウォッター住民として珍しい事例だと思い、試合が始まるまでの時間にインタビューをした。実際に調査をすることで、もしもの時にも言い訳が立つ。その彼は、両親がサバ州に出稼ぎに来ていた時に、そこで生まれ育ったのでマレーシア国籍を持っているが、彼の居住しているスクウォッター集落には、インドネシア・スラウェシ島出身のブギスもいるという。アブラヤシ栽培が盛んな農村部と同様に、ブギスのイバン社会あるいはサラワク社会への浸透が感じられる。 そのブギス男性も、自分の鶏を連れてきていた。私たちは、初戦のブギス対イバンの試合を見た(写真3~4)。インタビューに応じてくれた彼は物腰の柔らかい静かな中年男性で、対する若いイバンはすでにしたたか酔っぱらっていて、妄言を吐き散らし、周囲に散々迷惑をかけていた。多くの人々は(そして私たちも)、密かにブギス男性を応援した。
初戦の試合の出場者は、それぞれ50RMを仕切り屋に出していた(写真5)。敗者はそのまま50RMを失うことになる。勝者は勝利金として受け取る50RMのうちの1割を仕切り屋に納める。一方、この日の賭け主への配当割合は、7:3であった。たとえば、10RMを賭けた鶏が勝利した場合、10RMとその7割の7RMを合わせた17 RMが手元に戻ってくるというシステムである。差額は仕切り屋の懐に納まることになる。試合直前、仕切り屋を通さず個人的に賭ける相手を探す人々も会場の中央に集まり「money, money」「○○RM」と大声を出しうろうろと歩き回っていた。試合が近づくにつれ、人がごった返し、騒然とした異様な雰囲気へと変化していく。そして、試合の結果は、ブギスの勝利であった。 エントリー数の少なかった当日は、試合と試合の間のインターバルが長かったが、皆が警察のパトロールを警戒していて、農村の闘鶏会場とは異なる緊張感が常に漂っていた。闘鶏会場で捕まった場合は、1,000RMの罰金か、1週間の禁固刑に処されるという。私たちもなんとなくそわそわしてしまい、長居は無用と早々に退場することにした。 同じ日の夕刻、空港近くのスガン地区にある大規模な住宅団地にも調査に行った(写真6)。ここは、スクウォッター住民を移転させるために政府が準備した住宅団地で、5階建てのアパートが17棟建ち並び、約1,000世帯が入居している。私たちは、スクウォッター集落からここに移転してきた人々へのインタビューをしようと考えたわけである。現在もスクウォッター集落に居住している人たちのなかには、移転先のアパートでは闘鶏ができなくなるから移転申請はしたくないという人もいた。しかし、スガンの住宅団地に行ってみると、団地の外にあるやや奥まった空き地で、やはり闘鶏が行われていた。 私たちは、団地のゲートの外に建ち並んでいる常設屋台(写真7~8)の一つに腰を下ろし、そこで焼き鳥を売っている中年女性にインタビューを始めたが、一緒に団地までやってきた友人2名は私たちのインタビューには付き合わず、そのまま闘鶏会場に向かった。屋台の女性に闘鶏のことを聞くと、ライセンスが出ているというが、信用はできない。他の人は、「ライセンスはイバンの大祭の時にしか出ない。独立記念日のようなマレー(連邦政府)の行事の時に許可が下りるわけがない」と話していた。 私たちが屋台の女性にインタビューを始めて闘鶏のことなど忘れかけていた時、そこに2台のパトカーがやってきた。今にも停車しそうなノロノロとした動きで、屋台周辺にいる人たちは、そのパトカーを凝視している。「昨日、ここの屋台で酔っ払いが喧嘩をして騒ぎを起こしたから、そのパトロールだろう」という人と、「いや、あれは闘鶏会場を探しているのだ」という人で見解は分かれたが、ともかく闘鶏会場には私たちの友人がいたので、携帯電話に連絡して、すぐに会場を離れるように指示した。その直後、屋台の並びを眺めるかのようにゆっくりと動いていたパトカーが徐々に速度を上げて、闘鶏会場のある丘の方に向けてダート道を入っていった。 あとから聞くと、闘鶏会場の入り口付近で見張り役をしていた男たちの警告で、会場にいた人たちはみんな逃げ惑ったそうだが、結果的に警察に捕まった人はいなかった。パトカーが闘鶏会場に到着した頃、友人たちは裏山を駆け上っていたという。その後、他人の野菜畑を踏み散らかして走り抜け、団地の裏手に回って金網の破れた部分を匍匐前進ですり抜けたあと、いかにも団地から現れたふりをしながら、表のゲートから屋台に向かって歩いてきた。一見澄ました様子だったが、実際にはほうほうの体で逃げてきたようで、白いシャツは汗と砂埃でドロドロになっていた。私たちは屋台に座りながら、裏山を走る男たちの姿をはるか遠くに認めたとき、友人たちの安否を気遣いながらも、実際には腹を抱えて笑っていた。「あそこまで逃げれば、大丈夫だ!」と。そして、屋台に戻ってきた彼らの逃走劇を聞いて、ますます可笑しくなった。 どうやら警官たちは、闘鶏会場にいた人々が逃げ惑うなかで、人間ではなく鶏を取り押さえていたらしい。なかなか会場から戻ってこないパトカーをこっそり見に行った人から聞くと、自分の鶏を取り押さえられた男が、それを返してもらうために「袖の下」をいくら払うかの交渉をしていたそうだ。大金をかけて購入し、筋肉増強剤などの高価なエサを与え、大事に育ててきた闘う鶏を、勝利の誉を受けないままに、あるいは勝利金を得ないうちに、簡単に手放すことはできない。警官も当然それを知っているわけである。人間を捕まえるより、鶏を捕まえる方が「稼ぎ」になる。闘鶏会場にいる人々にとっては、自分が捕まって牢屋に入ることになるか、鶏が捕まってそれを取り戻すために大枚をはたくことになるか、その時の警官の行動次第のようである。 イバンにとって、闘鶏は欠かせない娯楽の一つであり、文化でもある。移転先のアパートに行くと、闘鶏もできないし、畑も作れないし、移転なんかしたくない、と主張するスクウォッターたちがいた。闘鶏用のブレード作りをしていた男は、スクウォッター集落を追い出されたら、故郷のロングハウスに戻るだけだと話していた。たしかに、アパートの立ち並んだ団地での生活は窮屈であろう。部屋は狭いし、たくさん階段を上らなきゃならないし、職場や学校からも遠いし、街へ行く乗合バンの運賃も高い。娯楽も少ないのかもしれない。しかし、アパートに移った人々は、時に警察の「手入れ」から逃げ惑いながらも、移転先で今も闘鶏を続けている。 この住宅団地は政府主導で作られたものであり、ムスリム世帯も一定数含まれているため、団地の敷地内では酒も豚も販売できないことになっている。当然、闘鶏もできない。しかし、団地のゲートを出たところには、小さな屋台が立ち並び、夕方や休日はそこで買い物をしたり、酒を飲み交わしたりする人でごった返している。時には酔っ払いがけんか騒ぎを起こしたりもする。屋台を経営している人も、そこで買い物する人も、ほとんどが団地のアパート住まいである。屋台の裏側の空き地には畑があって、野菜やトウモロコシが植えられている。団地の住民たちが勝手に植えているのである。そして、そこから丘の方に5分ほど歩いてくと、表通りからは見えない窪地に闘鶏会場がある。 同じ形の建物が無機質に並んでいるだけに見えるアパート群だが、そこにも少しずつ有機的なコミュニティができ始めているように感じられた。アパートに転居した彼ら/彼女らは、もともと色々な街を転々としてきた人たちで、スクウォッター集落での居住経験も長い。どこに行ってもそれなりに楽しみながら生きていく術と逞しさを持っている、とでもいうべきであろうか。 警察の手入れからうまく逃れてきた友人たちは、団地のゲートを出たところの屋台に座り、ビールで渇いたのどを潤し始めた。別ルートで逃げてきた男たちが同じ屋台の隣席にいることに気付き、互いの無事の帰還を祝し、握手と杯を交わしていた。まるで戦場から戻ってきた同志のようで、見ていてすがすがしさを感じてしまった。 パトカー騒ぎで私たちのインタビューは吹っ飛んでしまい、闘鶏会場がお開きになったため客も一気に増えたので、屋台の女性はいつの間にか仕事に戻って忙しそうにしていた。インフォーマントを失った私たちは、「そういえば今日は祝日だからねえ」などと言いながら調査を放棄して、焼き鳥でビールを飲み始めた。そして、鶏を小脇に抱えてバイクで猛然と走り去る男たちの姿を見ながら、またしても腹を抱えて笑っていた。鶏を抱えて逃げ果せた人、運悪く取り押さえられた人、それも一つのゲーム性あるいは博打性をもった偶発的な出来事であり、それらの話をネタに焼き鳥を喰らいながら酌み交わす酒は、いつも以上に楽しい宴席を提供してくれる。 都市部での闘鶏会場には、農村と違った緊張感と話題が充満していた。闘鶏は、イバンの祭りの時に行われる儀礼的スポーツとされるが、他地域の人々や他民族との交流の場でもあり続けた。闘鶏会場に華人やその他の民族が混ざっているのも、本来的に不思議な話ではない。農村部での闘鶏会場は、実際のところ華人のチンピラたちに牛耳られてしまっている感が否めないが、スクウォッター集落や住宅団地の闘鶏会場は、イバンが中心となって運営しており、そこにときどきブギスや華人、マレー人も参加する。 サラワク各地から集まってきた「他人」同士のイバンが集住するスクウォッター集落では、このような交流の場は、実は農村以上に重要な社会的意味を持つのかもしれない。しかも、そこにさまざまなハプニングが伴うことで、人々の絆と仲間意識がむしろ強められることもある。イバンの男たちにとって、闘鶏はどこにいたってやっぱりやめられない真剣勝負の娯楽・文化であり、都市における社会関係の形成の場でもあるのかもしれない。