cseas nl75 特集1 安藤和雄先生インタビュー 私の地域研究を振り返って

「主体」として「在地」の問題解決に取り組む
実践型地域研究が拓く未来

安藤和雄(京都大学東南アジア地域研究研究所)

話し手:安藤和雄(京都大学東南アジア地域研究研究所)
聞き手:足立真理(京都大学東南アジア地域研究研究所)
構成・協力:英明企画編集

──安藤先生が中心となって2008年から進めてこられた実践型地域研究について、詳しく教えていただけますか。

安藤和雄(京都大学東南アジア地域研究研究所)

安藤 実践型地域研究についてお話しする前に、まずは地域研究について考えてみましょうか。みなさんにとっても地域研究というのは、何だか曖昧模糊として、「何でもあり」という印象だと思うんですね。

地域研究は既存の学問領域とどう異なるのか

安藤 私は京都大学大学院農学研究科の熱帯農学専攻の出身で、東南アジア研究センター(現・東南アジア地域研究研究所。以下、東南研)が設置した協力講座の学生第1号です。私が院生として過ごした1980年代の東南研では、地域研究とは何か、既存のディシプリン(学問領域)とどう違うのかについての議論が盛んで、「地域研究という独自の方法論があり、固有の新しい学問分野として確立できる」と主張していたわけです。その時代を学生として過ごしましたから、「三つ子の魂百まで」ではないですが、私もそれが身に染みついています。
 みなさんは地域研究について、既存の学問とは違うものだと考えていますか。

──私も地域研究は独自の方法論だという立場です。でも、そもそも地域研究という用語が含む範囲は広すぎると感じています。国際協力などの分野での貢献をめざす実践的な研究を指す人もいれば、政治学・経済学などの既存のディシプリンを地域に適用した研究すべてを指す人もいて、すごく多義的・多層的だと思いますね。

安藤 では、地域研究の根幹として、何があれば地域研究だと思いますか。たとえば東南研やアジア・アフリカ地域研究研究科(ASAFAS)、アフリカ地域研究資料センターなどが行っている地域研究のメインとなる方法論は何だと思いますか。

──やはりフィールドワークと言語習得をメインとして、あとは様々な既存のディシプリンをたくさん学ぶ学際的アプローチなどが主な方法論ではないでしょうか。

安藤 そこは少し気になるところです。私が学生だったころと比べると、現在はディシプリンをかなり重視して、きちんと修めてそれを活かすことが求められますね。
 でも、やはり地域研究の根幹、地域研究とそれ以外とを分けるのは、まずは「フィールドがあるかないか」でしょう。地域研究とは「場」があるもので、フィールドを固定してその「場」で考える。たとえば東南研やASAFASなどが行ってきた地域研究における一つの基本的な合意は、フィールドワークをすることです。それは「フィールドの中で考えましょう」ということですね。外にいても対象のフィールドの範囲で考える。
 それに関連して、私自身が地域研究において大切にしたいと考えているキーワードは「在地」なんです。なぜ「地域」ではなく「在地」なのか。簡単に言うと、地域というのは相対的・相関的な概念なんですね。たとえば、関東があるから関西があって、関東がなければ関西はない。でも、京都ならどうでしょう。

──京都は関東がなくてもあるような気がします。

安藤 そうでしょう。関東の存在とは関係なく存在する京都のように、相対的ではなく、絶対的もしくは主体的と言ってもいい「地域」が存在しますよね。私がなぜ「在地」という言い方をするかというと、本来は相対的である「地域」という概念を使って「主体的な地域」を語ると、齟齬を来したり、こぼれ落ちるものが出てきたりすると考えるからです。
 そもそもなぜ「地域」という相対的な概念を使うかというと、それは学問的分析、比較分析に使うためです。でも、私は比較分析とは違う、もう一つの異なる学問の方法があると考えています。それは直観です。これはいわゆる「科学的な見方」を主張する人たちからするとおかしいという話になるかもしれませんが、本来の学問、たとえば人文科学の発祥を考えると、分析というよりも直観ですよ。

説明原理としての科学と創造としての技術

安藤 そもそも人間は、ほとんどの場合、分析的になんて生きていません。その都度その都度の瞬間的な選択、直観力に従った選択の連続のなかで暮らしているわけです。その直観で選んだ事柄を他の人に説明しようとするときに、初めて分析的な視点が必要になる。
 科学というのはあくまでも説明原理です。だから科学に創造的思考は存在しません。ここはかなり誤解されている部分です。しかも「科学技術」という言葉が生まれたために、さらに混乱が生じてしまった。技術と科学との違いは明確で、技術というのは創造です。だからブラックボックスなんです。たとえば、車輪は誰がどうやって発明したのか。車輪が転がる原理なんて誰も知りません。農業で種子を蒔いて作物を育てる。これも誰も原理なんか知りません。蒔いてみたら実が成ったという経験の積み重ねですから、これは技術ではあっても科学にはなり得ない。なぜなら科学には説明がいるわけです。
 その考えを推し進めると、分析的ではないもの、一般法則に落とし込めないものは科学ではないから学問ではないのかという話になる。これは学問の本来のあり方とは何かという問題につながると思います。また、なぜいま大学院進学者が少ないのか、学問がなぜ人気がないのかにも関連する話ですよ。なぜだと思いますか。

──金融危機や難民、地球環境問題などの、新しいグローバル・イシューが出現する昨今、一定の理論に基づいて体系化された知識と方法では解けないという閉塞感が蔓延しているからでしょうか。

安藤 ここで考えたいのは、学問の始まりについてです。私自身は、学問の本来の出発点は、「問題を解決したい」という動機ではなかったかと考えています。つまり、人生における生き方の問題や技術的な問題を解決したいとういう思いが根底にあって学問が誕生した。その問題解決の営みのなかで、分析による発見と説明のための科学が出てきた。科学というのは法則に落とし込んでいけるから、他人に説明がしやすいでしょう。説明できれば様々な人がそれを共有して利用できるようになるわけです。  ここでもう一度、科学と技術との違いについて考えてみたいと思います。たとえば、ある原理に基づいた自動車のブレーキについて科学論文を書くとして、「ブレーキを100回踏む試験をしたら、100回のうち1回エラーが出た」という実験結果を得る。この原理が正しいという内容の論文を書いて投稿したら、アクセプトされるわけです。100回のうち1回だめなら有意水準1パーセントだから、充分に受理されます。5パーセントでも可能です。
 しかし一方で、技術として考えてみると、100回に1回ブレーキが利かないかもしれない自動車に乗りたいと思いますか。

──危なくて、とても乗る気になれないですね。(笑)

安藤 そうでしょう。誰もそんな自動車には乗らない。ですから自動車のブレーキは、おそらく何千万回、何億回と踏んでも機械的なエラーは起こり得ない確率で生産されていると思います。なぜならそれは人の命に関わるからです。ここに科学と技術との違いがある。つまり科学と技術とでは、扱う領域がまったく違うんです。それをごちゃまぜにして「科学技術」とか言い始めてしまったから問題が起こる。原子力発電所の問題がまさにそうです。原発はまだ科学の領域にあるもので、技術としての完成度が極めて低いんです。
 私が実践型地域研究というときの「実践」には、この問題も射程として含んでいます。つまり科学と技術とは分けて考えるべきで、そして説明原理でしかない分析的な科学からは、新しい発想や新しい学問は生まれにくい。実践型地域研究とは何か、なぜ実践という言葉を使うのかという問いに対する答えの一つがこれです。すべてを法則的に理解することが大事なのかというと、そうではない。多少は法則から外れることがあったとしても、フィールドに入って「問題を解決するために」というベクトルのなかで様々な物事を考えて表現していくことが重要だと考えているわけです。

問題解決の実践によって主体と客体の壁を超える

安藤 たとえば大学院生がフィールドワークに行くと、数か月から半年、場合によっては何年という単位で現地に住み込みますよね。そうして暮らしながら現場でいろいろ考えていると、しだいに立場が逆転していきます。最初は見る側だったのが、見られる側になってくる。そして現地の人たちが発信してくるようになりますから、それまで自分では気づかなかったことが、どんどん情報として入ってくる。もっとも大きい発信は、彼らの関心事、彼らの悩みです。つまり、フィールドワークに長く住めば住むほどその場の問題が自然と耳に入ってきて、好むと好まざるとにかかわらず意識し始めるわけです。
 問題を知った人間はどうなるか。なかには関わろうとしない人もいますが、多くの場合はその問題を「シェアする」ことになっていく。それは人間のある種のヒューマニティ(人間性)というか、持っている本質ですよね。社会を作り、共同生活を営む人間が持っている性(さが)みたいなものです。自分が感じてしまった、相手も感じているような問題については、「みんなが困っているなら、何とかしようかな」と思い始めるでしょう。

──それはフィールドワークをしているとよくわかります。自ずとそうなりますよね。

安藤 そうなったときに、現地の人びととフィールドワーカーとが集まって問題に向かう一つの核ができるわけです。そこでは主体とか客体とかいう関係性は解消されて、フィールドワーカーも含めたその社会を構成する全員が、主体と主体との関係になるわけです。

──問題解決のために、現地の人もフィールドワーカーも同じ視点を持つわけですね。

安藤 そのときに、一つ考えなくてはいけない問題があります。先ほど言ったように、地域研究の根幹はフィールドがあること、場が特定されるということです。その場、フィールドというものを、一般化するのではなく個別的な「存在」として特定します。この「存在」とは何か。いま私やみなさんがここに「存在」しています。その「存在」とはどういうものでしょうか。私たちの「存在」というのは客体ですか、主体ですか。どっちですか。

──いまここにいる私は主体でしょう……。そう思いますけど……。

安藤 そうですよね。でも、自然科学における「存在」は客体──認識や行為の対象となるものなんですよ。だから分析が可能で一般化ができるわけです。でも、我々が日常会話で使っている「存在」、「私の存在」とか言う場合、それは限りなく主体的なものですよね。
 もちろん、こうした議論については様々な考え方があります。たとえば本質論的に言うと、存在は主体ではなく客体になってしまう。例として、ここにモニターがありますが、このモニターという存在の本質は「画像を映す」ことであって、名前を持ったこのモニター自体ではない。でも、我々が日常で考える個別の存在というのは、そんなことはどうでもいいわけです。それぞれが主張する「私は何の誰兵衛です」ということにこそ意味がある。

──主体として生きる人を見るフィールドワーカーとしては、忘れてはいけないことですね。でも、近年では地域研究でも社会科学的なものの見方を求められることが増えていて、科学的分析がなければ学問ではないみたいな圧力を感じます。対象とある程度の距離をとって、客観的な記述をすることがよしとされる部分がありますね。

安藤 それは科学だからですね。社会科学だから客観的な分析が求められるわけです。

──一方で、実践型地域研究では、フィールドで自分と現地の人が応対するなかで主体と主体になっていく。そこで問題に否応なしに気づかされると、ヒューマニティから自分も参画せざるを得なくなってどんどん引き込まれていく。そこから科学的分析ではなく直観に基づく学問が始まる……。興味深いですね。

安藤 おもしろいでしょう。

主体の視点から見えるもの──バングラデシュ農業技術研究から

安藤 ただし、私は分析的なもの、科学的なものを否定しているわけではありません。それは方法論としては意味がある。でも忘れてはいけないのは、「科学的なものがすべてではない」ということです。私がわざわざ「実践型」地域研究と言ったのは、科学的な話もそれはそれとして意味がありますが、「もうええんちゃうか」という思いからですよ。重要なのは、フィールドにおいて、つまり在地で主体的に変化していくものが何か、何がそこの人たちの生きるエネルギーになっているのかという視点です。在地の視点で見ると、フィールドの見え方はまったく違ってくるんですよ。

──それは具体的にはどんなことでしょうか。

安藤 たとえば農業技術について、フィールドに暮らす人たちの主体的な視点から分析した場合と、客観的態度で他との比較のなかで分析するのとでは、わかることがぜんぜん違います。私の調査地のバングラデシュでは、農業に犂を使っています。犂を使う技術そのものは、もともと半乾燥地のものです。半乾燥地では犂を、雑草防除のために使ったり、天水を土地に吸着させるために使ったりしていました。しかしそれがインド経由でバングラデシュに入ると、同じ技術でも意味がまったく異なってきます。バングラデシュでは直まきなどに犂を使っていて、半乾燥地ではなく湿地の技術になっているわけです。
 ところが、外から客観的に観察した人が、系譜的に考えて、「地域」という概念を使って科学的に分析すれば、「バングラデシュの犂の技術はインドにルーツがある。これは乾燥地の技術だ。だからバングラデシュの伝統農業は半乾燥地農業だ」となってしまうわけです。でも、それを「半乾燥地農業」と呼んだら、農民の主体はどこかにとんでしまうわけです。

──研究からこぼれ落ちてしまいますね。

安藤 そうです。フィールドの問題にともに向き合う主体としてバングラデシュの農民の立場で考えると、たしかに彼らはその技術を受け入れたけれども、半乾燥地の技術として使っているわけではない。「バングラデシュに入ってから在地的展開をして変質している。それには実際にこんな機能があって、ルーツは半乾燥地かもしれないけれども機能的には湿地農法です」と説明したい。こうした展開をするために「実践型」を掲げているというのが、もう一つの理由です。

──問題解決という実践に取り組むことで、主体としてフィールドに向き合うということですね。

安藤 もう一つ、問題の解決に取り組むときに何が大切になるかというと、やはり自覚だと思うんですよ。科学に自覚はそれほど必要ありません。科学というのは、ある種の中立化ができるところがあって、主体の思いなどの様々な要素を隠せるでしょう。その人自身がどう思っているかということは、あまり関係ない。
 たとえば、ある人がフィールドでの調査内容を論文に書いたとします。そしてそのフィールドワーク時に、その地で何らかの問題が起こっていたとする。その事実を知ったうえでその論文を読んだ人は、「あんな問題が起こっていたのに、この人はなぜ調査だけに専念できたのだろう」と疑問に思うでしょう。よく倫理的に問題になるのは報道カメラマンの場合ですね。「写真を撮る前に、なぜこの人を助けないのか」という疑問や批判が出てくる。
 こうした問題は地域研究者のあいだではあまり取り上げられていませんが、ジェンダーや環境の分野ではかなり議論が進んでいます。私が関係しているファーミング・システムなどの農業関係、農村開発の分野では、とっくの昔、30年前ほどから、外部者の関わりや支援のあり方などについて議論されています。「もう参加型さえもおかしいんじゃないか」という指摘もあるわけです。私が「実践」という言葉を使ったのは、地域研究に携わる者のなかで、主体と客体の問題をきちんと議論していくためでもあります。

──フィールドワーカーとしての自覚を喚起する重要な指摘だと思います。

実践に身を置くことで磨かれる生命力に基づく直観

安藤 実践型地域研究というのは、きざな言い方をすると、「存在を実存として捉える」というアプローチです。普通の学問的・分析的なアプローチをとると、絶対的な物差しを持ったうえでの比較から始まって、ある種の否定論のような話になってきます。「AとBとの違いは何か」という見方ですね。そうではなくて「絶対肯定」──まずは存在を丸ごと、良い悪いを抜きにして受け入れる。そこから出発する。それが本来の学問のあり方ですよ。
 科学的な分析の怖さがどこにあるかというと、それは距離です。物事を理解するには、距離を置いて分析する方法と、もう一つ、同化しながら理解する方法とがあると思います。恋愛にたとえるとわかりやすいかもしれません。ある人を好きになって、どんどん気持ちが高まれば、「一緒にいたい」と思うようになるでしょう。「好き」の原点は同一化だと思います。ですから、どうしても誰かと別れたくなったらすること、もしくは別れたくなければ絶対してはいけないことがあります。それはその人を分析することなんですよ。

──別れたい相手について、科学的に分析するんですか。(笑)

安藤 そう。別れたくなければ、絶対にやめたほうがいい。(笑)
 恋人同士に限らず、分析し始めたら必ずその対象からは離れます。なぜなら対象から距離をとって他と比較することが分析の原点だからです。たとえば安藤を嫌いになりたいと思ったら簡単です。分析したらいい。「あいつは身長が何センチで、他の人と比べたらどうか……」。これを始めたら必ず気持ちは離れていきます。

──実践型の例でわかりやすいです。(笑)

安藤 やはり大切なことは、問題をシェアするという気持ち、そういう理解の姿勢です。分析を超えた、直観的な、存在の根源に触れるような理解の仕方をする。そして直観とは、簡単に言うと生命力ですよ。

──生命力。「生きようとする力」という意味ですか。

安藤 そうです。「生きたい」と願う人間が根源的に持っている問題解決なり理解の仕方、これが直観的な方法です。そして、その直観的な方法の力がもっとも発揮されるのが、乗り越えなくてはいけない問題に直面したときです。そのときにその人の直観力が発揮されてくる。だから実践型なんです。問題解決という実践によって主体となることで視点が変わり、しかも直観による理解力がもっとも強くなるわけです。
 そうして直観で理解をしながら、他の人にわかってもらうためには、分析的な表現をとるしかない。分析の利点の一つは、分析的な表現は人にわかってもらえるということです。ただし、分析的な表現は問題解決にはつながりにくい。たとえば政治家でも、学者の意見に耳を貸しているようで貸していないことがたくさんあるでしょう。政治家に限らず、いくら人に分析的・論理的に説明しても、「うん」と言わないということがあるでしょう。これはなぜだか考えたことはありますか。

──説明の仕方が悪いとか、説明が足りないということでしょうか。

安藤 そうではないんですよ。真の理解というのは、自分の生命と直結するんです。そこと呼応しない、実感を伴わない説明については、誰も心から「イエス」とは言わない。会議でいくら説明しても、納得してもらえないことはいくらでもあるでしょう。そのときに、ただの科学的分析に基づく内容ではなくて、生命力と密接に関連する直観力によって得られた成果なら説得力を持ち得るんじゃないか。実践型地域研究であれば、学問としてそうした試みができるんじゃないかなと思っています。

──突き詰めていくと様々な可能性がありそうですね。

安藤 これまでの学問とは違う成果が出てくると思いますよ。分析的・客観的に、遠くから見て記述するものではなく、論理展開がわかりづらいかもしれないけれど、問題に対する試行錯誤のなかで見えてきた部分があったら、それを文章化して、かたちとしては分析的な表現をとる。それを学問として認める。そんな試みがあってもいい。そういう学問ができたらという気持ちで実践型地域研究を始めたわけです。これまでの地域研究もいいけれど、普通の学問をベースにしたものとは違うものがあり得るという思いがあったのです。

当事者性を前面に出した地域研究をグローバルに展開する

安藤 そもそも地域研究の目的として東南研などが標榜してきたのは、「新しい学問を創り出すこと」ですよね。それにはやはり粘って、「こんなおもしろいことができます」という取り組みをしないといけない。旧来の研究も大切ですが、新たなチャレンジも必要です。
 もう一つ、実践型地域研究の可能性として重要だと思うのは海外との連携です。問題解決の視点から見ると、国内とか国外という枠組みで地域を捉える見方は、もう現実と合わなくなっていると思います。問題を解決するには、日本と国外とをもっとリンクしていくことです。たとえば地域像を描くにしても、当事者性をもっと前面に押し出して、海外で同様の問題を抱える人たちと連携することによって、新たな地域像が出てくると思います。グローバル化時代の地域研究というのは、そういうものだと思います。

──現地の方も問題解決のために様々な取り組みをされていますし、そもそも私たちが海外で地域研究をすることの意義が問われている時代ですから、たしかに海外との連携は重要ですね。

安藤 そうです。国内の問題と海外の問題を同じ知恵のなかで考えていくという新しいかたちの地域研究は、今後さらに増えると思いますね。地域研究を突き詰めて考えて主体と主体との関係性だということになれば、そこに行かざるを得ないと思います。そしてそれこそが新しい学問につながるおもしろい地域研究になるのではないでしょうか。

──地域研究の新しい可能性が感じられて勉強になりました。ありがとうございました。

2020年2月4日(火)