2020年度の米国アジア研究協会東南アジア部門最優秀学生論文賞に当たるパタナ・キティアルサ賞を受賞された政治学者の上砂考廣さんと、本研究所の土屋喜生が2021年5月21日に対談を行いました。
パタナ賞は、例年、米国アジア研究学会の年次学会において発表される東南アジアに関する最優秀論文賞で、2017年に土屋喜生が同賞を日本人として初受賞1しました。上砂さんはそれ以来、日本人として二人目の受賞です。今回、インドネシア及び東ティモール研究に関わり、またパタナ賞受賞経験者でもある二人による対談をお届けします。
上砂さんの受賞論文は、“Beyond Nationalism: Youth Struggle for the Independence of East Timor and Democracy for Indonesia”のタイトルでコーネル大学の学術誌、Indonesiaの110巻10月号に掲載されました。
自己紹介、受賞論文が生まれた経緯
土屋 まず、受賞論文が生まれた経緯に絡めて自己紹介をお願いします。
上砂 現在(2021年5月当時)、私はシンガポール国立大学の比較アジア研究プログラムで博士課程の1年目に在籍しています。学部は関西大学で、政策学や政治思想史を勉強しました。大学時代のゼミでは、プラトンやアリストテレスなどから始めて西洋思想史を勉強しました。3・4年生の頃に理論に傾倒し、ナショナリズム研究に着目するようになり、ゲルナー、ホッブズ、アンダーソンなどの作品を読むようになりました。ただ、当時のナショナリズム研究では理論的・規範的論文が多く「これはどこで起きている現象なのだろうか」と感じることが多々あり「地に足が着いていない」という違和感を持つようになりました。
特に政治理論でよく言及されるリベラル・ナショナリズムなど、イギリスやヨーロッパのナショナリズム論を念頭に置くと、やはり規範的な研究が多い。それで、うずうずしている時に、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』に出会い、「インドネシアって面白いかもしれない」と思ったのが、私が東南アジアに関心を持った経緯です。その中でも新しく生まれた国のナショナリズムの研究をしたいと考え、東ティモールに着目するようになりました。東ティモールは、21世紀の初めに独立し、私が学部生のときにちょうど独立10周年を迎えた頃でした。
土屋 上砂さんの日本の大学院での訓練はどのようなものでしたか。
上砂 大阪大学に東ティモールがご専門の松野明久教授がいらっしゃって、関西大学で学部を卒業後に大阪大学の修士課程に進むことにしました。研究室訪問で彼とお話させて頂く機会があり、東ティモールへ留学の機会があることも教えて頂きました。当時、大阪大学は文科省の世界展開力強化事業「アジア平和と人間の安全保障」プログラムに採択されており、東南アジアの大学へとセメスター留学ができたため、幸運にも修士1年の夏から東ティモールへ半年間留学する機会を頂き、現地調査をしました。
受賞論文について
土屋 受賞論文は大阪大学での修士論文に基づいた作品だそうですね。内容を説明して頂けますか。
上砂 東ティモールは、1975年までポルトガルの支配を受け、1975年から1999年までインドネシア統治を経験した国です。この論文が着目しているのは、インドネシア時代に育った「若い世代(Geraçao Foun)」と呼ばれる人たちです。彼らの思想と運動を明らかにしようというのが、大きなテーマでした。その中で重要な点は、彼らはインドネシアから支配を受けているにもかかわらず、インドネシアの教育を受けてインドネシアという国にシンパシーを感じているということです。スハルト政権下にあった1990年代のインドネシアでは、インドネシアの若者たちも民主化や人権を求めて社会運動に参加していました。その中で、私は、東ティモールの独立運動とインドネシアの民主化運動が連携していくという現象に着目して研究を進めていきました。
私が疑問に感じたのは、異なる2つのネイションに属する2つの活動家集団があるにもかかわらず、なぜこの人達が協力してナショナリスティックな運動をしているのかということでした。アーネスト・ゲルナー、ベネディクト・アンダーソン、アンソニー・スミスの先行研究は、「特定の領土によって規定された国家の設立を目指すもの」という前提に基づいていたため、異なるナショナリスト運動の連携には目を向けていません。
論文の結論を言うと、インドネシアと東ティモールの若者たちは、全く別の成果を目指しているのにもかかわらず、政治運動だけを共有していたということです。これを「ナショナリズム」と呼ぶかどうかについては異論があるかもしれません。ただ、参加している人々がこれをナショナリズムの運動とみなしているという点を考慮しなければいけません。すると、領土に基づくナショナリズムとは異なるナショナリズムがあるということが垣間見えてきました。
土屋 上砂さんの論文を読ませて頂いた印象としては、先に仮説を立ててそれを実証していくというよりは、フィールドワークでの経験が先行しているように見えます。現場で「あれ?」と感じたところから始めて、活動家たちとのインタビューを集める過程で、さらに「あれ?」が重なっていく。そのような疑問に答えようと直感に従ってデータを収集した結果、前もって予想し得ないような結論にたどり着いている。
私の場合は、初めて東ティモールを訪問したのが2007年で、2009年から2010年まで国際連合の選挙支援チームのオフィスで仕事をしたり、その間、元独立派ゲリラの家に住みました。上砂さんの言う「支配を受けつつ、インドネシアにシンパシーを感じる若い世代」というイメージに適合するような人々とも出会いました。例えば、当時の国連のオフィスには「インドネシア語は使うな」という上層部の方針がありました。
上砂 そういうものがあったんですか。
土屋 ありました。占領していた国家であるため「東ティモール人の国民感情を考慮したから」らしいです。でも、国連で働いているティモール人職員のほとんどがインドネシア語教育を受けた「若い世代」の人々です。「私達はインドネシア語の方が得意で、むしろポルトガル語は難しいから苦手」という人もたくさんいました。
私が生活を共にした元独立派ゲリラの男性の家族もそういった複雑さを持っていました。この男性は、ポルトガル時代の終わり頃に育ち、初期のナショナリスト運動に参加しました。ですが、彼の妻は「若い世代」に属しています。なので、彼女と子どもたちは、毎晩インドネシアのドラマを楽しそうに見ています。インドネシア語がわからない元ゲリラの男性だけが、部屋の隅に座っている。公的な言説としては、独立派ゲリラを東ティモール独立史の「英雄」として称えているわけですが、家庭では「英雄」たちが孤立しているという感じでした。このような理由で、国連の方針や外国人の著者たちが外国人の読者向けに書いた内容に関しては、ややとんちんかんな部分があるという印象を持っていました。上砂さんの場合は、研究の方向性を左右するようなフィールドでの経験というのはありましたか。
上砂 ホームステイ先で子供たちがインドネシアのドラマを見ていたというのはありましたね。そこは比較的裕福な政府職員の家庭だったのですが「文化的にはインドネシアだよ。大学もインドネシアに行った」と言っていました。行く前に英語の文献で読んだものとは全然違う世界がありました。敵としてだけではなくて、何かポジティブなものとしてのインドネシアも彼らの生活の中にあるのではないかと感じました。またインターン先のベルンというNGOでは、普段はテトゥン語で話しているのですが、会議ではインドネシア語を使っていました。
また運命的な出会いもありました。私はオフィスの近くにあるハブラス(Haburas Foundation)という団体の食堂で頻繁に昼食を取っていました。そこに集まっている人たちの多くが、独立運動の時代に活躍したレネティル(RENETIL)という地下活動組織の活動家たちだったんです。レネティルのリーダーで、後には国会議長になったフェルナンド・アラウジョなどもたまにここに来ていました。まさに「若い世代」の活動家たちの巣です。私にとっては、この食堂での出会いが原点ですね。
インタビューしていくうちに、レネティルの活動家たちは、口々に「インドネシア人たちはいいやつで、一緒に運動したんだよ。昔一緒にスハルトの銅像を壊したりしたんだよ」という武勇伝を口々に語るんですね。「インドネシア人と一緒にインドネシアと戦う」と言っていたことが印象に残りました。東ティモールの活動家たちは、「スハルト体制下でインドネシア人も同じように苦しんでいる」という認識を当時持っていたようで、だからこそ東ティモール紛争を国際問題ではなくて、インドネシアの「国内問題」として概念化させることが独立を実現に近づける大きな力となると確信していたようです。これがレネティルが掲げていた「東ティモール紛争のインドネシア化」(Indonesiação do Conflito de Timor-Leste)という運動です。
大阪大学の修士課程でのフィールドワークは、当初は東ティモールだけで完結する予定だったのですが、インタビューを通し、こうしたインドネシアとの関係がだんだんと明らかになってゆきました。こうしてインドネシア人の活動家たちにもインタビューする必要があると感じ、予定を変更し一ヶ月間ジャカルタに渡り、レネティルの活動家たちに紹介してもらったインドネシア人の活動家たち4名に会いに行きました。
実は、彼らとのインタビューがフィールドワークの一番興味深かったところで、彼らに東ティモールのことを語ってもらうと、すごく熱いんです。それも東ティモール人がインドネシアについて語る以上に。ある活動家は「東ティモール問題について知ることができたからこそ、インドネシアの民主化に向かって目を開かれた」と言ってました。武力で併合した東ティモールにおける住民投票を認めないと、インドネシアは真の意味で民主化できない、という議論です。「だからこそ、インドネシア人ナショナリストが、東ティモールの独立を支援した」と言っていて、この時点で荒削りながら「新しいことを発見できた」という確信がもてました。そこから理論的に発展させて行ったわけですが、土屋さんがおっしゃる通り、私の研究の原点はフィールド、特にハブラスの美味しい食堂にあると言えます。
土屋 先ほど「文献とは違うティモールの世界」というお話があったのですが、上砂さんが研究を始められた頃の先行研究についてはどのように考えておられますか。
上砂 まず、英語圏の研究については、オーストラリアとポルトガルの研究者たちの著作が多く、全体的には東ティモールだけで完結してしまっている作品が多いという印象がありました。
土屋 「東ティモールだけで完結している」というのはどういうことですか?
上砂 例えば、オーストラリア人の人類学者アンジー・ベクスレイによる東ティモールの「若い世代」の研究があります。彼女は「若い世代」におけるインドネシアの内面化という話までは行くのですが、結局東ティモールを観察することに終始してしまい、インドネシアの人々との相互関係までは調査していません。他にもオーストラリアの政治学者マイケル・リーチも東ティモールのナショナリズムについて書いているのですが、研究の範囲は独立した東ティモールという国家や領土に縛られてしまっています。したがって、1990年代の「若い世代」の運動の議論は比較的少ない。話題に上っても彼らの孤立したアイデンティティーが問題になり、彼らの東ティモールを超えた連帯の話は出てきません。
土屋 私も東ティモール研究の領土性については似た印象を持っていました。国連時代に東ティモール人の同僚と話していると、「インドネシア人の嫁をもらった」、「息子をインドネシアの学校に送った」、「インドネシア領ティモールの親戚が」という話が出てきます。視点が東ティモール領だけに縛られてしまうと、ティモール人の空間的経験を見誤ってしまいます。
上砂 また、日本の東ティモール研究では、国連の平和構築の研究が大きなウェイトを占めるトピックでしたね。特に土屋さんの法政大学での指導教員であった長谷川祐弘先生がパイオニアで、東ティモールは国連研究の一環として取り上げられるという形が多いです。一方、私の指導教員であった松野明久先生は、通史的な東ティモール独立史を書いていました。ご本人も当時東ティモール人たちの紛争を支援していたので、当時のありとあらゆる史料を駆使して書かれた作品です。
土屋 10年から15年くらい前ですと、本腰を入れて東ティモールについて書いていた日本人研究者は3、4人しかいませんでしたよね。
上砂 特に日本語の研究は、層は薄かったですね。だから、やろうと思ったというのもあります。
受賞論文についての反響など
土屋 上砂さんは、東ティモール研究の研究史から見ると、従来の手法や観点にとらわれない主張をしておられると思います。現時点でどのような反応がありますか。
上砂 大きく分けて2種類です。カントリースタディーズ的なスタンスで研究をしている方、自分たちも活動家であるような研究者たちからは、ネガティブなコメントが多いですね。「インドネシア人とティモール人の共闘を過度に強調しすぎている」というコメントを頂いたことがあります。確かに、インドネシアと東ティモールの若者が共闘したというのは、全体から見ればほんの小さな現象なのかもしれません。
土屋 上砂さんの論文は、インドネシアと東ティモールの支配的な言説の両方から周縁化された活動家たちのストーリーだからですね。
上砂 その通りです。逆にナショナリズムの研究をされている先生や別の国を研究されている先生は、高評価をくださいました。
土屋 上砂さんの論文がそうした高評価を得られたのはナショナリズム研究の文脈においての理論化がうまくいったからでしょう。逆に1970年代から独立運動に参加した人たちや東ティモールの独立を支持してきた人たちからすると、「東ティモール独立」の物語が弱められてしまうという風に見えるのかもしれないですね。私自身、東ティモール独立運動の組織と言説の多様性を認めたくない層もいるのかなと感じます。
上砂 東ティモールでも公的な言説としてはインドネシア人が東ティモール独立に果たした役割を含めたくないという感情があり、インドネシア側でも同じような感覚はあるのだと思います。後者の民主化において、東ティモールの独立を重要だとは考えない人々もいると思います。
理論と実証のバランス
土屋 別の面から見ると、上砂さんの論文への反論というのは、実証主義の自意識を持つ研究者によくある反応だと思います。歴史家としてのコメントですが、インドネシア史でも日本史でも、実証主義重視の方々に限って、自分が既に史料を選別しているということを忘れてしまう場合がある。それは「インドネシア史」「日本史」というフィールドを選定した時点で、いくら多数の史料に当たっているとはいえ、既に大多数の史料(例えば通常中国史やアメリカ史の範疇で分類される史料など)を除外しているわけです。
私の作品もそうですが、上砂さんの受賞論文は調査地を増やしたり、新しい解釈をすることで理論的な貢献をしています。「インドネシア民主化の活動家と東ティモール独立運動の共闘」というトピックは、それぞれの国ごとの研究や文書館に固執していたら絶対に見えてこない観点です。2つの分野を統合して初めて上砂さんのような解釈が出てきます。
私は「いい研究」というのは総じて理論と実証のバランスがいい作品だと考えています。理論偏重は地に足がついてない研究につながり、実証偏重だと「So what?」と問いたくなります。上砂さんは、実証と理論のバランスをどのように取っていますか。
上砂 私はナショナリズム論への関心からインドネシアと東ティモールに関心を持ちました。特に、ベネディクト・アンダーソンやクリフォード・ギアツのような地域研究から世界に通用する理論を作り出したパイオニア的な研究者たちが、インドネシア研究出身だったこともインドネシアを選んだ理由の一つです。インドネシアは、理論化を行う土壌として、他の国より面白い。そして、東ティモールは、複数の植民地支配を経験している領土だったことも、新しい理論を作り出す土壌として可能性があります。どちらも現象として面白い。
インドネシア語をマスターして、地域の文化にどっぷり浸かるのが日本の伝統的な地域研究ですが、私のスタートは少し違いました。
土屋 「理論化の土壌として面白い」ですか。これは上砂さんの研究の面白さの背景にある感覚かもしれないですね。上砂さんの両国への関心は、トランスナショナル研究に近いとも言えますよね。ハブラスで昼食を食べ、レネティルの武勇伝を収集する中で、領土を超えた活動の重要性が見えてきた。元々理論的な関心から東ティモールに入ったけれど、実証研究をしていく中で、新しい理論が形成され、データ収集の方向性も変化していった。「ジャカルタでフィールドワークをする」という研究計画の変更をしたのも、インタビューの中でインドネシアという領域の重要性が明らかになってきたからですか。
上砂 当時はそこまで考えてはいませんでした。ティモール側の活動家たちのインタビューばかり集めていたので、正直なところ彼らの武勇伝に信憑性があるのか不安になったことが大きかったです。結果的には、インドネシアの活動家たちも東ティモールのことを熱く語ってくれたので裏が取れたわけです。
フィールドにおける研究者の立ち位置
土屋 先輩にあたる東ティモール研究者は、大多数が「白人」の研究者たちですよね。彼らは、70年代から90年代には東ティモールへの訪問がなかなか厳しい中で、外部に漏れてきた情報を頼りに、あるいは短い滞在期間に集めた情報を糧に執筆しました。
2000年代になると、それまで独立運動や人権に関心を持っていた人たちが、初めて国連統治下の、次いで独立した東ティモールに行き、そこで観察したことをベースに執筆しました。
私や上砂さんが本格的に研究を開始したのは、2010年代になります。アジア系の研究者として、ほぼ初めて独立後の東ティモールでフィールドワークをする、ということになります。研究者が「アジア系である」ということが、データ収集に影響を与えたということはありますか。
上砂 それは難しい質問ですね。
土屋 例えば、1960年代の史料を比較していて思ったことがあります。日本人として戦後初めてポルトガル領ティモールに入った京都大学のグループに高橋徹という人がいました。彼は、ポルトガル領ティモールでの人種差別を目撃して「時代遅れの植民地」と言い放っているんです。それに対して、同時代のポルトガル人やジェームズ・ダンなどのオーストラリア人は「静かで平和な街」というイメージで回想しています。これら二つの見方は全然違います。だから「観察者がその社会において何者か」「インフォーマントは誰に対して話しているか」ということが、集められるデータに影響を与えることがあると思うんです。
私がディリに住んでいたときも、「インドネシア人はフレンドリーで、ポルトガル人は嫌なヤツが多い」と私に言うティモール人がいました。でも、同じことを「白人」の研究者には言わないと思います。フィリピンで第二次大戦についてのオーラルヒストリーを集めたときも、いくら私が「中立だ」と説明しても、フィリピンの方々は日本軍の悪事についてはあまり話したがらないんです。別の国の研究者には話すことでも、日本人は傷つくかもしれないと心配したりするみたいです。
上砂 研究者の国籍が研究に影響を及ぼすということは、あるかもしれないですね。オーストラリアはインドネシアと東ティモールに対して直接的な利害関係がある国ですが、日本の場合あまりそうした利害関係がなかったので、政治的なしがらみを心配する必要は少なかったですね。
むしろ「若い世代」の活動家たちに関しては、普段から東ティモールからもインドネシアからも公的な言説から除外されてしまっている傾向があるので、日本人の研究者が来てインタビューしたいという場合、「自分たちの武勇伝をもっと話したい」という熱意を感じるくらいです。ひとつの質問に対して、1時間くらい話してくれるという感じです。
指導教員と東ティモール研究について
土屋 私が東ティモールに関心を持ったきっかけは、2006年まで国連事務総長東ティモール特別代表だった長谷川祐弘先生が、私の母校である法政大学に就任されたことでした。長谷川先生は2006年に東ティモールの紛争を経験されて、責任を取る形で国連を辞職されました。今では長谷川先生からは「土屋君は全然違う方向に飛んで行ってしまった」と言われているのですが、先生が口にされていた「なんでティモール人同士の紛争は起こったんでしょうね」という問いが、私の研究の根底にはあります。シャナナ・グスマンも演説で度々このテーマに戻っています。上砂さんと松野先生の師弟関係はどのような感じでしたか。
上砂 松野先生は気さくな方ですね。優しくて、フィールド肌の研究者です。元々は言語学が専門でした。その後、80年代後半から90年代にかけて、東ティモールの支援に入り、活動家的な研究者になりました。ですので、ティモールの活動家たちとの広いネットワークや資料を持っていました。研究においてどういう資料を使うか、という面でかなり相談させて頂きました。
同時に、松野先生は政治思想史にも造詣が深いです。プラトンやアリストテレスとか。それで、気が合いそうだと思いました。実は、ティモールの「若い世代」を研究しようと思ったのも、松野先生から彼らの研究をしている人があまりいないと伺ったというのもありました。
土屋 松野先生の『東ティモール独立史』(早稲田大学出版部、2002年)もポルトガル語で育った世代、武装して戦ったゲリラが主役でしたが、レネティルも少し出てきますよね。
上砂 出てきます。今から読むとよくこんな資料集めたなというところもあります。でも、全体としてはフレティリン(FRETILIN)が本書のコアという感じですかね。私の場合は、その流れで東ティモール独立運動史の流れに続いて、松野先生が書かれていない方向に向かっていって、彼も指導してくれたという感じです。地域研究というよりは、政治学的な訓練です。でも、欧米の大学と違い、日本の修士課程はディシプリンと地域研究をあんまり対立させたりしないんです。学問的に鍛えられたという意味では、当時の国際関係論の先生には論文の読み方、書き方についてしっかり教わりました。それで、良い論文やその型を学びました。あとは独学ですね。
将来の展望
土屋 修士課程の後はしばらく民間企業に勤務されていたそうですが。
上砂 東南アジア向けの交通システムの営業をしていました。
土屋 研究対象やトピックを決めるときは、現在の政治・社会問題を念頭に置いて、何が重要な研究かと問いながら決めるとおっしゃっていましたよね。
上砂 特に大学院に戻ってきてからはそうです。修士までは、流行るか流行らないかに関係なく、面白いと思うトピックを研究していました。一旦民間企業で働いて、よくも悪くも、実社会にアプローチしたいという気持ちが出てきました。気持ちとしてはアカデミックな研究の方が好きです。それでも、きちんと実社会に根差した研究をしたいという考えが出てきて、今は最近のアジェンダやそこから抜け落ちていることを俯瞰しながら、どう介入できるかと考えるようになりました。
インフラセクターに就職したのは、ちょっと汚い政治を生で見てみたいという気持ちもありました。インフラ関係の企業とかメーカーは、政権交代や政策変更があると直接的にビジネスに影響を受けます。だから、そういったリスクも考慮されるべきなんです。けれど、実際は「起こっちゃったらしょうがない」と目をつぶっています。実際、私がマレーシアでETC(自動料金収受システム)の拡販に関わっていたころ、マレーシアで政権が交代するということがありました。首相に返り咲いたマハティールが、「高速道路無料にしよう」と言い出して。
土屋 そうすると、お仕事なくなってしまいますね。
上砂 そうなんです。今まで会社の中でも議論されなかったことが、突然差し迫った問題になったんです。それ以降、国の権力と産業の関わりに関心を持つようになりました。そういうこともあって、シンガポール国立大の博士課程に進んでからは、インドネシアのオリガーキー、産業と権力の結びつきなどの研究を始めています。
土屋 それは確かに重大な問題ですね。最後に、博士課程での研究についての抱負を語っていただいてもいいでしょうか。
上砂 博士論文のテーマとしては、インドネシアのエネルギー政治について研究する予定です。指導教員であるダグラス・ケイメン先生も親切に指導してくださっているのでとてもいい環境です。これから3、4年で博士論文を書き終えたいですし、その間にも査読付き雑誌に論文を投稿していきたいです。
土屋 本日はどうもありがとうございました。
人物・用語解説
- アーネスト・ゲルナー(1925-1995)
英国の人類学者。ナショナリズムの研究で知られ、ナショナリズムは近代に出現した概念であると論じた『民族とナショナリズム』(加藤節監訳、岩波書店、2000年)は古典として世界で広く読まれてきた。 - ベネディクト・アンダーソン(1936-2015)
アメリカ人政治学者。比較政治、特に東南アジア政治を専門とし、ナショナリズム研究では『想像の共同体』の著者として世界的に広く知られている。日本語訳はベネディクト・アンダーソン著、白石隆・白石さや訳『定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』(書籍工房早山、2007年)。 - アンソニー D. スミス(1939-2016)
英国の人類学者。アーネスト・ゲルナーの弟子であり、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで長く教鞭をとった。著書『ネイションとエスニシティ―歴史社会学的考察』(巣山靖司・高城和義他訳、名古屋大学出版会、1999年)では、ゲルナーやアンダーソンのような近代主義的ナショナリズムの理解に対して、前近代的な民族・文化的共同体に焦点を当てたナショナリズム論を展開したことで知られている。 - クリフォード・ギアツ(1926-2006)
アメリカ人人類学者。インドネシア特にバリ島をフィールドとし、彼の著書『ヌガラ―19世紀バリの劇場国家』(小泉潤二訳、みすず書房、1990年)は人類学を超えて社会科学全般で広く読まれている。 - ジェームズ・ダン(1928-2020)
オーストラリアの元外交官。インドネシア統治下の東ティモールの諜報活動に従事した経験があり、1983年の著書Timor: A People Betrayedは東ティモール独立紛争に関する比較的初期の作品として東ティモールの専門家の間では広く読まれている。 - スハルト(1921-2006)
インドネシアの元軍人であり、第2代大統領。スハルト政権は「開発独裁」を敷いた独裁政権として知られ、1968年から1998年の退陣に至るまで30年間大統領の座に就いた。 - レネティル(RENETIL)
1988年にインドネシア本土の大学に在籍していた東ティモール人たちによってインドネシアのバリ島で結成された地下活動組織。東ティモールの若い世代の代表的な抵抗組織であり、1990年代にはインドネシア人の民主化活動家たちとともにインドネシアのスハルト政権打倒の共同デモを実施したことで知られる。 - フェルナンド・アラウジョ(1969-2015)
東ティモール人活動家で元レネティルのリーダー。東ティモール独立後は、東ティモール民主党を設立し、大統領や国会議長を歴任した。 - フレティリン(FRETILIN)
東ティモール独立革命戦線。1974年、ポルトガル支配からの独立を目指すティモール社会民主協会(ASDT)として発足し、同年東ティモール独立革命戦線=フレティリンと改称された。1975年11月に一方的に東ティモール民主共和国の独立を宣言し、12月7日から始まるインドネシア軍による侵略が始まると、東ティモールの独立を目指して武装闘争を展開した。1999年にインドネシアからの分離が行われると、フレティリンは政党となり、2001年の制憲議会選挙で88議席中55議席を獲得した。以後、東ティモールの国政においてシャナナ・グスマンが率いるCNRTとともに最も有力な政党であり続けている。
もっと知りたい人のための5冊
- ベネディクト・アンダーソン『比較の亡霊―ナショナリズム・東南アジア・世界』(糟谷啓介・高地薫ほか訳、作品社、2005年)
『想像の共同体』の著者ベネディクト・アンダーソンによる東南アジアナショナリズムの比較研究。『想像の共同体』以後のナショナリズム研究を方向づけた作品として東南アジア研究でも広く言及されてきた。東ティモールに関しては「ジャカルタの靴に入った砂利」という章で、インドネシア国内における東ティモール問題の在り方を批判的に分析するとともに、90年代の東ティモール人の若者たちの抵抗運動がある種の歴史的転換をもたらしたことが示唆されている。東ティモール人の独立運動をインドネシア側の視点から批判的に検討した作品として一読に値する。(上砂考廣) - Benedict Anderson, Imaging East Timor (Arena Magazine No.4 April - May 1993).
同じくアンダーソンによる東ティモール問題に関するエッセイ。『想像の共同体』の議論に添いながら、東ティモール人たちによる抵抗運動をインドネシアが東ティモールを「想像」できなかった帰結として理論的に分析している。Statism(国家主権主義)とNationalism(ナショナリズム)との関係を整理する上でも有益な理論的示唆を提供してくれる作品である。
なお、筆者の米国アジア研究協会パタナ賞受賞論文 “Beyond Nationalism: Youth Struggle for the Independence of East Timor and Democracy for Indonesia” はこのインドネシア人の東ティモールの「想像力」というアンダーソンの枠組みに添いながらも、実はインドネシアの民主化運動は東ティモールを「想像」することができたということを実証的に明らかにしている。(上砂考廣) - Hans Hagerdal, Lords of the Land, Lords of the Sea: Conflict and Adaptation in Early Colonial Timor, 1600-1800 (Brill, 2012).
著者は東部インドネシア史の権威であり、特に近世を専門としている。この作品は、オランダ東インド会社やポルトガルの史料とティモール島の伝承を比較しつつ、初期の植民地化の歴史過程におけるティモールの統治形態、紛争、そして社会的変容を研究したもの。しばしば「450年の植民地支配」の一部として単純化して語られてしまうこの時代を、前例のない変化をもたらした時期と捉えつつも、ティモール人を含む東部インドネシアの人々が中心的な役割を果たし続けた時代として生き生きと再構築している。(土屋喜生) - Affonso de Castro, As Possessões Portuguesas na Oceania (Imprensa Nacional, 1867).
19世紀半ば、ポルトガル領ティモールの総督、そして歴史家として精力的な著作活動を行ったアフォンソ・デ・カストロによる、史上初めての近代歴史学的手法に基づくティモール島の歴史書。史料的価値が高いだけでなく、当時の植民地政府の脆弱性、ティモール人たちの共同体とポルトガル人たちとの多様な関係性について、高い学術性と当事者性をもって書かれた一読の価値ある大作である。同時期の作品としては、英国人A.R.ウォーレスの滞在記が参照されることが多いが、カストロは6年余りの現地滞在に加え、総督としての特権的な地位や史料へのアクセスを利用することにより、豊かな歴史的文脈や現地経験を伝えている。(土屋喜生) - René Pélissier, Timor em Guerra: A Conquista Portuguesa, 1847-1913 (Editorial Estampa, 2007).
フランスのポルトガル帝国史の専門家であるPélissierによるポルトガルのティモールにおける「植民地平定戦争」の研究。この時期の研究として、史料的にも洞察力においても、他の追随を許さない。この時期、西洋における技術革新や交通の発展に伴い、ティモールへのポルトガル政府軍(西洋人だけでなく、ゴア人、アフリカ人、そしてティモール人が多く徴兵された)の戦争能力が漸次的に高まっていき、ティモール人の土着の共同体は大きなダメージを受け、変容を迫られることとなった。Pélissierの作品を第二次大戦期の研究やインドネシア軍による侵略戦争の研究と比較すると、ポルトガルによる平定戦争、特に1911年に始まるマヌファヒ戦争が、凄まじい人口減少と破壊を伴うものだったという全体像が浮かび上がってくる。これは公定史観に反映されていない事実であり、一読の価値がある。(土屋喜生)
- Note:
- 受賞論文の日本語版は、土屋喜生「ポルトガル領ティモールにおける19世紀後半から20世紀初頭の宣教テキストのテトゥン語訳―西洋中心主義的『誤訳』とその社会的・学問的影響」『東南アジア研究』55巻2号(2018年)。 英語版はTsuchiya, Kisho. “Converting Tetun: Colonial Missionaries’ Conceptual Mapping in the Timorese Cosmology and Some Local Responses, 1874–1937.” Indonesia 107 (2019): 75-94.
- 上砂考廣(かみすな・たかひろ):2014年関西大学卒業。大阪大学より国際公共政策学修士(総代)及びLSEより比較政治学修士を取得。民間企業勤務を経て、2020年よりシンガポール国立大学比較アジア研究プログラム博士課程に在学。専門は比較政治学及び東南アジア地域研究。主な著作として、 “Beyond Nationalism: Youth Struggle for the Independence of East Timor and Democracy for Indonesia,” Indonesia 110 (2020) 及びRoutledge Handbook of East and Southeast Asian Nationalism(近刊)(分担執筆)等がある。
- 土屋喜生(つちや・きしょう):京都大学東南アジア地域研究所助教。2009-2010年に国際連合東ティモール選挙支援チーム(UNEST)で選挙支援に従事した後、ティモール島の歴史研究を行う。「ポルトガル領ティモールにおける19世紀後半から20世紀初頭の宣教テキストのテトゥン語訳―西洋中心主義的「誤訳」とその社会的・学問的影響」で米国アジア研究協会から2017年パタナ・キティアルサ賞、“Representing Timor: Histories, Geobodies, and Belonging, 1860s-2018” で米国アジア研究協会インドネシア及び東ティモール研究委員会より最優秀若手論文賞を受賞。