新領域1

地域のフロンティアを切り拓く

地域のフロンティアを切り拓く

小林知

カンボジア研究 事実発見から体系化へ

小林知

ラオス研究 ―東南アジア大陸山地部の核心域―

河野泰之

ミャンマー(ビルマ)研究 ―民主化以前から本格化した組織的研究―

藤田幸一

インターフェースを考える ―マクロとミクロの接合点として―

石川登

新領域1

地域のフロンティアを切り拓く

地域研究者の信条のひとつがフィールドワークにあることはいうまでもない。そして,フィールドワークについては,脚で稼ぐといういい方をよくする。その言葉には,労力を惜しまない綿密な調査という意味とともに,とにかく歩いてみろという心意気が込められている。歩いてみた,踏査してみたという経験を通して,言語化できない部分を含む様々な直感的理解を研究者は得る。単に歩くのでは駄目だという反対の意見も,特に大学院生に対する教育の場面等ではよく耳にするが,とにかく歩いて,直の目でみつめてみるという意義を根本のところで軽んじる地域研究者はいない。農村であれ,都市であれ,文書館であれ,公官庁であれ,直に訪問してその空間のなかに身を置き,その場で人々と関わることから得られる知見は計り知れない。

一方,1945年のヤルタ会議から1989年のベルリンの壁崩壊まで続いた冷戦時代に,世界は西側と東側に二分されていた。1990年代に入るまで,東南アジアのラオス,カンボジア,ベトナム,ミャンマー等の旧社会主義国に対しては,本節が所収する河野の言葉を借りれば,「垂涎の地」として対岸から眺めるしかなかった。冷戦時代が終わり,現地政府から調査許可が下りるようになると,治安の問題といった地域レベルの事情を推し量りつつ,それらの国々でも所員のフィールドワークが始まった。ただし,ラオス語,カンボジア語,ミャンマー語をちゃんと習得し,十分な会話と読解能力をもつ研究者が大学院アジア・アフリカ地域研究研究科などで育ち,研究所で活躍を始めたのは,2000年代に入ってからのごく最近のことである。

東南アジア研究所は,2000年代以降,地域のフロンティアを先駆けて開拓してきた。シンプルな事実であるが,この時期に東南アジアの地理的範囲の全体がフィールドワークの対象となったことの意義は大きい。例えば大陸部東南アジアの状況をみると,従来の研究はタイに集中しており,タイを中心とした大陸部の地域観が語られることが多かった。それに対して,この十数年に進んだラオス,カンボジアやミャンマーといったポスト社会主義国でのフィールドワークは,それら個別の国々に対する従来の理解を更新しただけでなく,東南アジア研究の枠組み全体を対象化するインパクトをもっていた。

同時に,近年のフィールドワークの蓄積は,東南アジアの人々の生活を国家という枠組みと別の次元で理解する必要性をより重要かつ必須の視点として浮かび上がらせている。地域研究は,国民国家を前提とせず,地域のレベルで現象の分析を行う。共通した特徴をもつ生態環境の条件にもとづき,国境を単位とせずに研究の対象地域を設定し,その内外の様々な現象を研究する視点は,研究所では以前から主流であった。ヒト・モノ・カネは,古くからボーダーレスの状態で流れ,東南アジア地域をつくってきた。しかし,2015年のアセアン統合が示すように,いまや東南アジアの各国自身が,国民国家の枠では捉えられないボーダーを越える人々・社会・文化の動態という現実に正面から向き合い,制度的に支え,新たな東南アジア地域像を描こうとしている。

本節では,フィールドワークの拡張という時代背景のもとで進展した,地域のフロンティアを切り拓く近年の研究所の歩みを4つのエッセイを通して紹介する。

(文責:小林知)

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カンボジア研究 事実発見から体系化へ

小林知

1 東南アジア研究の空白地域

カンボジアは,1960年代以降の東南アジア研究の空白地域だった。日本だけでなく,世界的にみてもそうだった。東南アジア研究センターは,1965年に官制化された。当時のカンボジアはすでに流動的な状況にあり,現地調査が困難だった。そのため,長らく,東南ア研においてもカンボジアは主要な調査地とならなかった。例えばこの時期の『東南アジア研究』では,渡部忠世,高谷好一,坂本恭章,海田能宏らのごく少数の論考がカンボジアについて触れているのみである。1970年に始まった内戦と,1975~79年の民主カンプチア政権(ポル・ポト政権)の時代につづき,1980年代もカンボジアでは現地調査が困難な状況が続いた。調査が再開したのは,1989年のベルリンの壁崩壊に続く東西冷戦構造の緩和で国際情勢が一変し,1993年に国連が中心となって統一選挙を実施して以降のことである。

わたしが初めてカンボジアを訪問したのも,1994年である。その頃の首都プノンペンは,夜8時を過ぎると通りから人が消えた。国連の紋章とUNTACという文字をドアに塗り付けたランドクルーザーが我が物顔で街を行き交っていた。アンコールワット遺跡の観光では遠い場所に行くとクメール・ルージュの兵士と遭遇する危険があった。大学のカンボジア人学生の多くは,襟がすり切れたワイシャツを継ぎ接ぎして着ていた。しかし,長年続いた紛争状況が落ち着き,人々は自分たちの国と社会の将来に希望をもつようになっていた。コネがなければ何もできないという不満は聞いたが,個々人の才覚次第で富を得る可能性も大きく開け,内戦/ポル・ポト時代の全体主義的支配/社会主義というそれまでの20年余とはまったく違った方向へ社会が動き出していた。

2 事実発見とネットワーキング

東南ア研の所員の中でいち早くカンボジアに注目したのは,林行夫である。林は,1993~94年に,首都プノンペン近郊で仏教寺院の復興に関する現地調査をおこなった。その調査は,1970年代以降のカンボジアで実施された日本人による集約的調査の先駆けであった。そして,まだ混乱と社会主義政策の影響が濃く残った首都プノンペン近郊地域において,寺院を中心としたコミュニティと人々の仏教実践の様子を細かに記録した。ポル・ポト時代に強制された断絶の後,カンボジアの人々がいかにして宗教生活を立て直しつつあるのかを鮮明な様子で記述したその報告は,いまでは貴重な歴史資料である。

林に次いで,1999年12月に,福井捷朗,河野泰之,中村尚司(龍谷大学)らが,シエムリアップ州のアンコールワット遺跡群の周辺でグループ調査を実施した。これは,東南ア研におけるカンボジアでの組織的調査の先駆けであった。当時現地に留学中だったわたしも,通訳として参加した。調査の目的は,従来,灌漑への利用が想定されていた巨大貯水池バラーイの機能を農学的な視点から再考することだった。一カ月近く続いた調査では,遺跡周辺の農村や水田を訪問し,聞き取りと観察をおこなった。個人的には,通訳の作業を通して,農業や歴史についての聞き取り調査のイロハを教わった。最後は,歴史家のグループが合流して成果に関する議論をおこない,打ち上げた。

写真2 開店したばかりのイオン・モールのレストランで食事をする人々(2014年8月,小林知撮影) 2000年代に入ると,カンボジア語を用いて長期のフィールドワークを実施する者が現れた。わたし自身は,2000年からコンポントム州の農村で住み込み調査をおこなった。農村で定着型の調査を実現できた背景には,1998年にクメール・ルージュが消滅し,農村部の治安が安定したことがあった。その他にも,多くの幸運に恵まれて調査を終えた。しかし,帰国後に研究所の所員からかけられたのは,「本当に調査ができたのか?」という言葉だった。この頃には,藤田幸一などもカンボジアで調査をおこなうようになっていた。しかし,その他の所員はまだ,カンボジアを調査実施が困難な辺境とみなしていた。他方,京都大学農学研究科の院生だった矢倉研二郎も2000年前後から農村の長期調査をおこなった。佐藤奈穂,小笠原梨江,宮崎由伊ら大学院アジア・アフリカ地域研究研究科に所属した大学院生も,2000年代半ば以降に各地で住み込み調査を実現した。

写真1 共同研究の実施中, 水田土壌を採集しアンモニア含有量を計測する準備をするカンボジア人大学院生(2014 年8 月,小林知撮影) 2000年代後半から,カンボジアとの関わりは組織的な形で発展した。まず,2008年5~10月に,AngChoulean教授(王立芸術大学:RoyalUniversityofFineArts)を研究所に迎えた。AngChoulean教授は,外国人客員制度を通じて東南ア研に招聘された初めてのカンボジア人研究者であり,その後も研究所のカンボジア研究ネットワークのキーパーソンである。2008年には,日本学術振興会の若手研究者招聘事業を利用し,他の東南アジア各国の若手と並んでカンボジアの王立プノンペン大学(RoyalUniversityofPhnomPenh),王立農業大学(RoyalUniversityofAgriculture)から若手研究者を京都へ招聘し,ワークショップ等をおこなった。2010年には,グローバルCOEを利用して王立農業大学の構内にカンボジア・フィールドステーションを立ち上げた。さらに,2011年12月に,王立農業大学および王立芸術大学と部局間の学術交流協定を締結した。カンボジアは今日,確実に,東南ア研の国際共同研究ネットワークの一部となった。

3 考察の体系化に向けて

2014年6月30日,首都プノンペンにイオンのショッピングモールが開店した。8月末の出張時に足を運んだところ,カンボジアでは類を見ない広大なレストランのフロアに,バンコクのモールで見慣れたカフェや各国料理の店舗が入っていた。一食に少なくとも10ドルはかかると思われるそれらの店は,食事を楽しむカンボジアの人々で溢れていた。ただ,滞在先のホテルからそこまで1ドルの料金で運んでくれたバイクタクシーの運転手は,「中には何の興味も無い」と淡々と語った。平和構築以後の急速な発展は,いま,カンボジア社会の個々人の人生にくっきりとした形の光と影を浮かび上がらせている。

権威主義的な政治体制と社会との関わりは,今後の重要な研究課題である。1990年代に国際関与下で基礎がつくられた現在の政府は,第1政党である人民党の支配下にある。フン・セン首相を頂点とする機構は,資源管理などで恣意的な行政決定を繰り返してきた。国家とコミュニティの間の断絶は大きく,土地を収奪された農民によるデモや陳情が後を絶たない。そのなか,2013年の国政選挙では,SNSによって横の繋がりを得た若者人口が支援する野党が,国家制度をバックとしてトップダウンの政治を推し進めてきた人民党に対し善戦し,多くの議席を獲得した。人民党や官僚の側でも世代交代が進むなか,カンボジアの国家と社会が今後どのような形を結ぶのか,支配する側の手法の変化も含めて注視に価する。

政治の問題は,性質上,現地の研究機関や研究者との共同研究の対象とすることが難しい。一方で,グローバルに拡がる関係性のなかで進む社会文化変容の諸側面は共同研究の格好のテーマである。例えば,タイやマレーシア,韓国へと向かうカンボジア農村出身者の労働移動については,2015年のアセアン統合と併せて,多くの研究者が関心を寄せている。都市郊外の外資工場などの労働者による組合活動も,2000年代に現れた新しい潮流であり,重要である。一方,共同研究では,基礎研究の積み上げも引き続き求められる。例えば,農村での生業活動に関しては,土壌や土地利用,家計などの基本的な調査を,カンボジア人学生らと共に進め,その未来を一緒に考えることに意義がある。その際,例えば東南ア研が近年発展させてきた地域情報学といった手法を応用し,その社会の経験を体系的に統合し,新たな形で考察することが望まれる。

国家制度や社会変容などのメインストリームの研究に加えて,カンボジア人自身の自己表象やマイノリティなどのテーマも,その社会の特徴を知るために今後ますます重要である。1990年代に国際関与によって政府機構がつくられ,その後NGOを含めた国際援助のなかで過ごしてきたカンボジアの人たちが,自国の歴史をどう考え,いかにして過去と未来を結ぼうとするのか,若い世代が描く自画像/社会像/国家像に関心が惹かれる。芸術や文学といった文化活動が「食べることに困らなくなった時代」のカンボジアでどのように再編されてゆくのか,興味が尽きない。ポル・ポト時代の記憶とどう向き合うのかという問題も,その時代が終わってから30年余という時間の経過を背景として,今日改めて重要性を増しているように思う。

 

 

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