cseas nl02 特集1 西渕光昭教授 回顧録

健全な身体に科学する心を秘めた野郎の残した轍

轍 (わだち)- それは誰も気付かないうちに風化して消えていく多くの足跡とは違う。ヒトの英知と努力に支えられた活動の結果発生した一条の光と汗の臭いが織り込まれ、後輩への道標として役だち、踏まれて上書きされ、そして消えていく。そんな轍を残すことができれば、我が人生に悔いはなし」と思ってきました。豊富な写真とともに紹介させていただく私の軌跡に注目し、ステップ・オンしてみようという方が見つかれば幸いです(西渕光昭)。

聞き手 中口義次 (石川県立大学 生物資源環境学部食品科学科食品管理学)

中口:これまでのご自身の人生を振り返って、特に印象に残る思い出があれば教えてください。

写真1. 学生時代でも、年始には大阪の実家に帰省していたので、1月2日には父と日帰りで金剛・葛城山系の山に登っていました。

西渕:私は大変幸せ者で、家族を含めて周囲の人々の暖かいご理解と思いやりのお陰で、常に自分の思い通りに、自由に生きることができたので、思い出が多すぎて、困ってしまいます。幼少期からの思い出をざっと振り返ってみますと、子供の頃は大自然と戯れ、学生時代は日本でも米国でもスポーツと飲み会をエンジョイすることを通して多くの友人ができ、また自転車や車を通してメカにも興味を持つようになりました。研究者になってからはこのような経験を生かしながら、いろいろな国の研究者と多角的な国際共同研究を楽しむことができました。振り返ってみますと、とりわけ人格形成に影響を及ぼす幼少期の経験が最も重要な我が人生のたたき台になったと言えますので、少し詳しく説明いたします。その後に記憶に残っているのは、このたたき台の上に積み上げるようにできあがったようなものが多いと言えます。幸いにして代表的活動は自慢のカメラで記録した写真に残っていますので、それらを中心に紹介いたします。

家族との思い出の中で最も印象に残っているのが父との思い出です。米国留学まで、毎年正月の1月2日には日帰りで一緒に近くの山に登っていました(写真1)。その時人生訓となる様々な格言や有用な言葉を学びました。「艱難汝を玉にす」と「人生の岐路に出会ったときは、より難しい道を選べ」が最も記憶に残っています。また私が広島市内ではじめて下宿した時、ダブルの背広を着て私に同行して、下宿のオーナーへきちんと挨拶をしてくれました。以来下宿では「りっぱなお父さん」という評判が絶えませんでした。さらにその後の私の人生で重要な役割を果たしたオーダーメイド自転車と一眼レフカメラ「ニコンF2A」とズームレンズセット(当時は相当な高級品)の財政援助に、快く応じてくれた良き理解者でありました。

中口:では、まず幼少期から青年期までの思い出やそのころの様子について教えてください。

生まれと家族との思い出

父親が建設業関連の仕事をしていた関係で移動が多く、生まれは山口県光市、1 年後には北九州市八幡区に移住し、小学校6 年生からは大阪市阿倍野区に移住し高校卒業まではそこで過ごしましたが、大学は両親の出身県である広島県を選んだため入学時に単身で広島市に移住しました。その後、専門学部(福山市)へ移り、2 回の米国留学と就職(ポスドク)、そして日本の大学への就職とその後の2 回の異動が経歴に追加されました。

家族との思い出の中で最も印象に残っているのが父との思い出です。米国留学まで、毎年正月の1月2日には日帰りで一緒に近くの山に登っていました(写真1)。その時人生訓となる様々な格言や有用な言葉を学びました。「艱難汝を玉にす」と「人生の岐路に出会ったときは、より難しい道を選べ」が最も記憶に残っています。また私が広島市内ではじめて下宿した時、ダブルの背広を着て私に同行して、下宿のオーナーへきちんと挨拶をしてくれました。以来下宿では「りっぱなお父さん」という評判が絶えませんでした。さらにその後の私の人生で重要な役割を果たしたオーダーメイド自転車と一眼レフカメラ「ニコンF2A」とズームレンズセット(当時は相当な高級品)の財政援助に、快く応じてくれた良き理解者でありました。

幼少期から興味を持っていたこと

私が子供の頃は、まだテレビゲームのような室内での遊びはありませんでしたので、アウトドアでの遊びが中心で、特に夏は楽しみでした。北九州市八幡区の小学校周辺には雑木林などの自然環境が豊富で、セミ、キリギリス、カブトムシ、クワガタムシなどを目指して日が暮れるまで虫取り網とカゴを持って走り回っていました。今でも強く記憶に残っているのは、捕まえたキリギリスがシャツに食いついた状態で、胴体を強く引っ張ってしまったので、命の儚さと尊さを学んだことです。

夏休みには、両親の古里である広島県の山間部に里帰りするのがとても楽しみでした。昆虫よりもっと興味があったのが、川の中流域や上流の渓流に住む様々な魚でした。帰省が近付いてくると、夢の中に川の情景や中の魚の姿や動きがでてくるようになり、釣り道具屋に足繁く通うようになりました。

写真2.「西渕流ウグイの流し浮かせ釣り」で当時釣り上げた大物ウグイの魚拓。 教授室に飾っています。口周辺部の汚れは、魚拓作製時に餌の食パンが胃から逆流して口から噴出してきたためにできました。

母親の出身は、君田村という山麓地域で、1 日に何本かの路線バスが通過する砂利道に面して立てられたログハウス風の家でした。飲料水は山肌からのわき水、風呂や洗濯用の水は横を流れる用水路を使っていました。子供の足で歩いて30 分位のところにある何でも屋さんに行けば、食料を調達でき、村人は秋の収穫祭を楽しみに棚田で米を作っていました。家の直ぐ裏には渓流が流れており、しばしば夢の中で深い渕の中のまだ見ぬゴギ(イワナの仲間)の大物と浮子を通して会話をしていました。浅瀬では水が驚く程澄んでいて、丸太橋の下に見えるオイカワの群れやカワムツを釣ろうと思い、橋の上に腹ばいになって格闘し、気が付いたら何時間も経っていました。糸の先に繋げた釣り針にご飯粒を付けては流れにのせ、魚の眼前まで送り込んで、「食べろ、食べろ」と言いながら、ご飯粒をとりあっている魚達の鋭く無駄のない動きを観察して、感心しました。後にこれが、叔父からオイカワの脈釣りの秘技を伝授されるのに役だつとは思ってもいませんでした。

父親の出身地は、三次市で3 本の大きな川が合流する地点で、当時アユやウグイなどの清流魚やコイなどの大型の魚が豊富に捕れるところでした。幼少の頃から、なぜこんなに魚が豊富なんだろうと思っていました。ある夜、橋の上からバケツ一杯の残飯を川に放り込んでいる人たちを発見し、その下流の闇のなかで「パク、パク、パク」という音が聞こえた事を鮮明に覚えています。その後に、格言「水清ければ、魚住まず」を学んだ時にこのことを思い出しました。さらに、高学年(16 歳)になってからですが、磯の上物釣り用軟調竿(ドラムリール式)を手に入れた時、この記憶が蘇り....... 続きはこちら »西渕光昭教授 回顧録 健全な身体に科学する心を秘めた野郎の残した轍

*「西渕光昭教授 回顧録 健全な身体に科学する心を秘めた野郎の残した轍」から