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追悼 西渕光昭先生(1954-2019)

2019年6月24日、西渕光昭先生は逝去されました(享年66)。突然の訃報に、東南アジア地域研究研究所の関係者一同、深い悲しみに打ちひしがれました。西渕先生への感謝と哀悼の意を込めて、以下にその略歴と業績を紹介いたします。

 西渕名誉教授は、病原性細菌学、腸炎ビブリオおよび腸管出血性大腸菌研究の専門家として先駆的な研究を行われ、2011年に日本熱帯医学会賞を受賞、2016年タイ国プリンス・オブ・ソンクラー大学より名誉博士号を授与、2018年には英国環境漁業養殖科学センターから名誉フェローシップを授与されるなど、その業績は国内外で高く評価されました。

 西渕先生は、1954年、山口県光市で生まれました。幼少時代を北九州市と大阪市で過ごし、その後広島県広島市および福山市で学業を始めました。豊かな自然のなかで青年時代を過ごすうちに、自然界、とりわけ魚に関する強い関心が育まれ、この原体験が生涯にわたる探究心を磨いてきました。夏が来るたびに魚釣りに没頭し、独自の「流し浮かせ釣り」法を編み出したと回顧されています。魚の生態に関心をもった中学生時代に湧き出した釣りに対する情熱を物語るエピソードで、釣り上げた大物ウグイの魚拓は研究室の壁に飾られています。釣りへの情熱は海洋環境や魚の病気に関する強い関心を引き出し、広島大学水畜産学部に入学後は水産学を専攻しました。この分野における日本の研究が他国と比べて遅れていることを学部時代に痛感した西渕先生は、文部省の奨学金を獲得後、オレゴン大学ジョン・F・フライヤー教授の指導の下で勉強することを決意しました。博士課程の研究(1979-1983年)は、養殖ウナギの潰瘍病を起こす病原性ビブリオの新菌種に着目した微生物学でした。この研究は後に先駆的な研究となり、多くの論文を生み出しました。また、腸管感染性細菌検査のための新しい動物モデルの研究進展を図った功績によって、1981年に米国シーグラント協会学生研究賞を、82年に同N.L.ターター研究賞を授与されました。1982年、研究していた腸管出血性大腸菌がオレゴン州とミシガン州で大規模に広がった際、西渕先生は最初の日本人として調査に加わりました。

 米国でポスドク研究を行うため、1983年以降はボルチモアにあるメリーランド大学医学部ワクチン開発センターに所属し、腸炎ビブリオの病原因子の研究を続けました。国立医療研究開発機構が主催した日米共同医学科学会議での発表を機に、西渕先生の研究は日本の研究者の注目を集めることとなり、先生は自身の知識を日本の学術研究の発展に役立てるため帰国を決意し、1986年、大阪大学微生物病研究所の所員になりました。1988年京都大学医学部に異動、1996年に同東南アジア研究センターに着任後、インドネシアでの2か月の調査を通して、ご自身の研究の道を開拓し、東南アジア研究に貢献することを決意されました。

 その後西渕先生は、大規模プロジェクト「東南アジアで越境する感染症:多角的要因解析に基づく地域特異性の解明」(基盤研究(S)、2007-2011年度)など、医学と東南アジア研究とを架橋する最も先駆的な研究をいくつも率いていきます。アジアにおける腸内感染症に焦点を当てながら、プリンス・オブ・ソンクラー大学の研究チームと共同で、腸炎ビブリオの毒性株の蔓延を追跡し続けました。研究所での日々を過ごしながら、アジアにおける腸の伝染病の広がりをもたらしてきた特定の食品の調理法、消費パターン、文化的嗜好について、学際的なアプローチを適用した研究をすすめました。このような貢献に対し、2011年、将来の日本の熱帯医学研究の方途を的確に示したとして第8回日本熱帯医学会賞が授与されています。西渕先生の研究への情熱は、研究室での交流にも注がれました。次世代の日本と海外の若手研究者たちを育てながら病原体の学際的研究に従事するよう奨励し、このことは研究所の所員に大きな刺激を与えました。

 西渕先生の自然界への情熱は、研究所の物理的環境にも変化を与えました。中庭には西渕先生自身が植え、長年にわたって献身的に世話をしてきた2本の枝垂れ桜があります。毎年桜の開花の頃にはライトアップし、沢山の写真を撮られ、それらは研究所のニューズレターを飾ってきました。退職記念講義では、西渕先生は自身が歩んできた軌跡を車輪が残す轍(わだち)――風化して消えていく多くの足跡ではなく、後に続く人々の道標となり、踏まれて上書きされながら消えていく轍――にたとえてお話しされました。西渕先生が残された数々の研究到達点、実り多き研究遺産、その生涯にわたる仕事は、私たちを鼓舞し、研究への情熱を駆り立て続けるでしょう。