cseas nl75 自著を語る 直井里予

『病縁の映像地域研究:
タイ北部のHIV陽性者をめぐる共振のドキュメンタリー』

直井里予(京都大学東南アジア地域研究研究所)

本稿は、叢書紹介ビデオ「自著を語る」のインタビューをもとに、編集を行ったものである。

本書は、HIV陽性者の日常に寄り添う中から地域研究の道に進んだ映像作家の私が、自らの変容も語りながら、映像地域研究の方法論的な確立を模索したものです。映像と地域研究に関する議論の2部構成になっており、前半第1部(「第Ⅰ部 HIVをめぐる関係のダイナミクス――ドキュメンタリー映画制作からの考察――」)では、北タイにおけるHIVをめぐる関係性を、ドキュメンタリー制作を通して考察しました。そして、後半の第2部(「映像表現の可能性と限界――「共振のドキュメンタリー制作」におけるリアリティ生成と制作者の視点――」)では、制作過程を分析しながら、映像表現の可能性と限界を考察し、映像というメディアそのものへ批判的な問いを投げかけています。

エイズ孤児施設「思いやりの家」

 近年、人類学をはじめフィールドワークを研究方法の中心とする人文社会科学の学問領域において、映像を用いた研究に関心が寄せられています。そこには、アンケート調査や参与観察にもとづく記述分析ではとらえきれないものを、映像はとらえることができるという前提があります。確かに、映像はテキストでは捉えきれない人間の表情や空間の変容などの相関関係を表現することが可能です。一方で、映像制作においては、撮影・編集の時点で撮影者が撮影対象者をどんな切り口で撮るか、撮影者の立ち位置(視座)や見る方向性(視野)によって現実描写が変化します。つまり、撮影者の「選択」(視点)が「社会的現実」の構成の一部として関与します。そこで、本書では、映像制作(撮る)という行為を反省的見地から分析し、視点内在的な社会的現実とはどういうものであるか分析しました。

 『病縁の映像地域研究――タイ北部のHIV陽性者をめぐる共振のドキュメンタリー』というタイトルには、病とともに生きる人々の関係性と地域、モノ、自然が共振しあう中で生成される映像ドキュメンタリーを通し、地域研究の可能性を論じたいという思いを込めています。「病縁」とは、病を軸とする人間関係を意味し、そこには、病を共有しない人びとも含まれます。「映像地域研究」とは、映像を通して、地域における人間関係や文化・自然の変容など、政治経済を含めた多様な現実の相関関係を人々の日常から捉えるアプローチを意味します。「共振のドキュメンタリー」という概念は、撮影者と撮影対象者と観る人が、双方で引き込みあってリズムを生み出しながら響き合うことで、その場で出会った者同士が引き起こし経験する「場の力」ともいえます。こうして映像制作(ドキュメンタリー映画)におけるリアリティ(現実)とは、「共振」からつくり上げられます。

地域の中で生きるHIV陽性者。村人との協働作業を通し活動を展開している

 

「共振のドキュメンタリー制作」によるアプローチ手法

 まず、私のドキュメンタリー制作の道具を少し紹介したいと思います。まず一番大切なのがビデオカメラで、私はキャノンの小型カメラを使っています。次にマイク。常にカメラにそのままつけるような感じで使っています。そして、ヘッドホン。映像にとって音はとても大切で、撮影の都度、音が必ず取れているか調べる必要があります。このように、カメラ、マイク、ヘッドホンをもって取材地に入ります。ただ、カメラも長時間持っていると疲れるので、その時は三脚を使うようにしています。この三脚はかなり重いので、インタビュー以外ではそんなには使いません。しかし、やはり三脚を使わない場合は映像がブレてしまうので、そういった時は、もう自らが三脚になります。三脚のように足を大きく広げて、両脇をガッツリ締めてカメラを持ち、息を止めて30秒、必ずワンシーン30秒撮影を続けます。ただ、この状況も長時間続けるとかなりきついので、その場合は一脚を使うこともあります。

制作中の『バンコク物語(仮)』の調査時の写真

 

 一脚にしても三脚にしても、カメラを撮影対象者にグッと寄せると、小型カメラとはいえかなり威圧感があると思います。この状況でいきなり村の中に入って、家の中に入り込んでも、撮影対象者がかなり萎縮してしまうので、まずは関係性を作るところから始めます。まずはカメラを脇に抱えて、撮影は行わずに撮影地に入ります。これを大体1年間ぐらいずっと続けると、撮影対象者が私の一部としてカメラを認識するようになってきて、初めて撮影を始めることが可能になります。このころには、だんだん撮影対象者が心を開いていって、カメラがまわっていてもいろいろ話をしてくれるようになるのです。

市場で卵売りをする映画の主人公アンナ

 これは、私がフィールドワーク調査の手法として取り入れた、「共振のドキュメンタリー」制作によるアプローチ手法の第1段階に当たります。このアプローチ手法では、まず、ビデオカメラを持つ前に、その地域の環境を知り情報を集め、村の人々とコミュニケーションをとりながら関係性を形成することが大切です。そして、関係性を形成しながら、撮影対象者とラポール(信頼関係)を築くことができ始めたら、撮影に入ります。彼らの声に耳を傾け、時には撮った映像を彼らにも見てもらいフィードバックを貰いながら撮影を進めます。最後に、撮影した映像を編集し、多面的・批判的に観ながら分析します。

 撮影の際には、作り手ができるだけ偏見によって視野を覆われることなく、偏向のない映像を映し出す必要があります。しかし、撮るという行為は主観的な行為であり、社会のあるがままの姿をカメラで映しだすことは不可能です。そこで、制作した作品の制作過程を制作者自身が自ら分析し、「観る」という過程そのものを、「観た」本人自らが客観的に観て分析するというこの手法を取り入れました。人は物事や他者を客観的にありのままみることはできませんが、観ている自分自身の心の状態や変化を直視することは可能です。そのことで、自分自身の状態を観ることができ、自分が映し出した現実がどのように構成されたものか、自覚的になります。こうして、北タイの村に身を置きながら関係性に自分自身が関わり、撮影対象者と共振しながら、自らが変容することで、地域の動態や場の変容を捉えることにもつながりました。

2本のドキュメンタリー映画

『アンナの道—私からあなたへ・・・』の釜山国際映画祭2009出品用チラシ

 本書では2本のドキュメンタリー映画を引用しています。 第2章「共同性の生成――『いのちを紡ぐ――北タイ・HIV陽性者の12年』制作からの考察」で引用した『いのちを紡ぐ』という作品は、タイ北部に位置するパヤオ県という所で足掛け12年間にわたり撮影を続け2013年に完成したもので、HIV 陽性者が、タイ政府による政策や社会変容の渦中に置かれる中で、村の人々とどのような関係を築いてきたのかという点に着目して制作した作品です。

 もう一つの『アンナの道』という作品は、本章の第3章「日常生活におけるHIVをめぐる関係性――『アンナの道――私からあなたへ…(完全版)』制作からの考察」で引用しましたが、アンナさんという一人のHIV陽性者女性の日常の営みを観察して、「HIVとともに生きる」という「経験」が彼女にとってどのようなものだったのか、生活全体を捉えることで、社会分析を深めました。

 そうした私の経験を、読者のみなさんにも文章と映像を往還しながら追体験して貰えるように、本書ではQRコードをつけて作品映像の一部を観られるようにしていますので、ぜひご覧になってください。

 

『いのちを紡ぐ』のファーストシーン。ゆるやかな関係性の有効性を蜘蛛の巣で表現。稲にかかる露は時の流れの儚さを象徴。

 

今後の展望

 いま取り組んでいるのは、難民の移動と定住に関する研究です。現在、タイとビルマの国境に約10万人の難民が住んでいるのですが、ビルマの民主化の動きをうけ、タイ政府による故地への帰還事業が始まりました。キャンプで数世代を過ごした難民が、長年暮らしたキャンプを離れて故国へ帰還した後、それまでの日常生活をどのように維持し、或いは変容させていくのか?という点を、映像を用いて明らかにしていきたいと考えています。

 また、戦後のタイにおける残留日本人の社会形成に関する研究にも取り組んでいます。2000年代後半からドキュメンタリー制作を続けていますが、これまで殆ど詳らかにされることのなかったタイ残留日本人の戦中・戦後におけるコミュニティ形成の詳細を、彼/女らが残してきた画像(や映像)、本人たちの証言をもとに明らかにしたいと考えています。

 さらに、教育におけるドキュメンタリー映像制作の可能性に関する研究を進めています。大学で担当している映像制作の講義では、主に、(1)地域社会へアプローチするためのコミュニケーション力や洞察力、(2)国際社会の問題を自らのものとして捉える際に必要な思考能力(社会問題を捉え、分析し、背景と関連づけ適切に対処する力)、(3)より説得力のある表現力を、身につけながら国際感覚を養うことを目指しています。メディア文化の基礎的理論に留まらず、文化人類学や地域研究の手法を用いて、社会の辺境から地域を眺め、既存の概念を脱構築する実践的な方法論を示しながら、既存の概念がメディアを含めた歴史的・社会的文脈の中で形成されてきたことを学生たちに学んで貰い、映像制作過程で、既存の概念が揺るぎ、新たな価値観を発見することで自らの視野が広がってゆく面白さを体験することへつなげていきたいと考えています。