cseas nl75 自著を語る 外山文子

『タイ民主化と憲法改革:
立憲主義は民主主義を救ったか』

外山文子(筑波大学)

本稿は、叢書紹介ビデオ「自著を語る」のインタビューをもとに、編集を行ったものである。

本書のテーマーータイにおける新憲法とタイ民主化との関係

2015年9月民主記念塔前で実施されたNGOによる反クーデタデモ (撮影者:外山文子)

本書は、1990年代以降にタイで制定された二本の新しい憲法(1997年憲法、2007年憲法)とタイ民主化との関係について分析したものです。21世紀以降、世界的に民主主義の後退という現象が起きていると指摘されており、これは政治学および地域研究の両分野で重要な研究テーマとなっています。1990年代には民主化の優等生と言われてきたタイでも、21世紀に入ってから、2006年と2014年と2回も軍事クーデターが起きてしまいました。さらに政府与党が2度、憲法裁判所によって解党されるという事態が起こりましたが、これはタイの歴史、長い歴史の中でも初めての出来事でした。2020年現在、タイでは実質的に軍部が国を統治している状態が続いています。では、どうして1990年代には民主化の優等生として期待されていたタイで民主化の流れが「逆行」してしまったのか。多くの研究者の関心事となっているこの問いを、アクター ではなく「制度」、憲法に基づいた政治制度から分析したという点が、本書の特徴となります。

 本書の分析において、最も注目した機関は司法です。新興国の民主化について研究する際には、軍や政党、もしくは中間層といったアクターに着目することが多いのです。本書で、上記のような定番のアクターではなく司法を取り上げた理由は、タイでは与党が2回も憲法裁判所によって解党されたという事情もありますが、先進国であるか途上国であるかを問わず、現在、世界的に司法が政治的な領域に深く入ってきており、これが政治学の研究において大きな関心事になっていることが背景にあります。本書では、(1)政治の民主化、(2)先進国と途上国の両方に共通する司法と政治との関係、という二つのテーマを同時に取り扱っています。

 詳しくはぜひお読みいただきたいのですが、既存研究と比較して本書の学問的な新しさといえるのは、タイの保守的な考え方を持つ法学者や元裁判官たちに話を聞いている点です。現在、司法と政治との関係についての研究はたくさん存在しますが、その多くは、司法が政治的領域に入りすぎることについて批判的な研究者の意見ばかりを集めたものとなっています。本書の場合は、その批判されてきた保守派層が実際にどのように考えて、政治的な領域に司法が入っていくことを認めてきたのかについて、当事者である法学者たちに憲法制定過程でどのように考えたのか直接インタビューを行ったり、議事録の詳細な検証を行ったりすることにより明らかにしています。このように批判一色から入らずに、あくまで中立的な立場に立って丁寧に検証したという意味で、新たな学術的貢献が出来ているのではないかと考えています。

 本書は、博士論文をベースに、主として憲法改正と民主化との関係について論じていますが、博論および本書の執筆中に、(1)政治の司法化(Judicialization of Politics) 、(2)汚職取り締まりの政治性という、ニつの新しい学術的テーマが浮かび上がってきました。すでに憲法裁判所の判事などにもインタビューをはじめており、ここ1、2年の間には司法がどのように民主化に影響を与えるかについて、次の単著本を出したいと思っています。また、国家汚職防止取締機関(タイ語での略称はPo. Po. Cho.)がどのような政治的役割を果たしているのかについても調査を進めており、こちらも共編著と単著の2冊の本として出版計画を進めているところです。

 

なぜこのテーマを?

 タイ軍がクーデターを何度も実行していることは、ニュースでも広く報道されているので、研究者以外の方々もよくご存知だと思います。軍部のクーデターによる政治権力の奪取は、冷戦時代は背後に米国の反共産主義政策があったため、国際的にも国内的にも比較的受け入れられやすかったという事情がありました。では冷戦が終了し、21世紀の現在になってもなおタイ国民が一定程度まで軍部によるクーデターを受け入れることが出来るのはなぜなのでしょうか? この問いには、冷戦期の反共産主義による正当化という話では答えることができません。

 では、一体なぜなのでしょうか? 西洋型の民主主義に対して国民がどのように考えているかという点がキーワードとなります。かつて90年代には、西洋型の民主主義を目指すべきだというコンセンサスがタイ社会にもありました。しかし、2020年の現在では、タイの決して少なくない数の国民が、西洋型の民主主義が必ずしもタイにとっていいものではないと考えるようになりました。そのような国民の意識があるからこそ、軍部のクーデターが成功するわけですね。それでは、どうしてこのように国民の意識が180度変わってしまったのか?という問いが生じます。実は2回の新憲法制定という制度改正それ自体が、タイ人の政治意識を変えてしまった部分があるということに、様々なタイの新聞記事や既存研究を読んでいて気づきました。そこから、どのようなプロセスで新しい制度が人々の意識を変化させたのかについて、法律制度の変更点や司法の動きを丹念に追うことである程度説明ができるのではないかと考え、このテーマを選びました。

2011年バンコク中心部で実施された「赤シャツ」デモ (撮影者:外山文子)

 

他分野、研究者以外の読者に向けて――

 一般の方々とお話ししていて、皆さんと私の意識の間で一番ギャップがあるのは、やはり裁判所は人々の人権を守ってくれる、政治や政治家の良くない部分を正してくれる、中立で高潔な存在だと思われている点です。先進国はともかくとして途上国、タイ以外にもカンボジアやインドネシアといった国々でも、裁判所は非常に大きな役割を果たすようになってきていますが、多くの方々は、それは政治的にはいいことなんでしょう、という考えを前提としてお持ちです。そこで、私が「いやいや政治的には、少なくとも民主主義にとってはマイナスの作用をしてるんですよ」と、お話をすると一般の方は「えっ、どうしてですか。裁判所が民主主義を守ってくれるんじゃないんですか」と驚かれます。同じ憲法裁判所や最高裁判所といっても、先進国と途上国との間で政治的コンテキストが違うため、ずいぶんと機能の仕方が異なるという点は、一般の方にとっても新しい知見になると思います。

タムマサート大学法学部に展示された憲法裁判所判事の紹介パネル (撮影者:外山文子)

 憲法裁判所では、例えばドイツが有名ですね。ドイツの憲法裁判所は、ナチスによる人権侵害に対する反省から強化されてきた機関ですが、タイでは全く同じ名前を持つ機関が別のコンテキストで誕生しています。つまりドイツのように人権救済のためではなく、タイでは、エリート達が1990年代以降力をつけてきた大衆に対する恐怖心から、その大衆のパワーを抑えるために憲法裁判所を導入してるのです。そのため、ドイツの憲法裁判所とタイの憲法裁判所では、当然、制度設計や人事が違うわけで、憲法裁判所の裁定が与える政治的な影響も全然違います。本書では、そのような理由などについて詳しく説明しておりますので、政治学の専門家ではなくても面白く読んでいただけるのではと思います。

 タイに関心を持ったそもそものきっかけは、「どうして何度もクーデターをやっているんだろう」という素朴な疑問でした。中でも一番印象に残っているのは、大学時代に起きた1992年5月の流血事件で、民主化を求める市民と軍部が大衝突をし、沢山の人が亡くなりました。東南アジアでは、今でこそ大衆デモが(マレーシアのブルシ運動、インドネシアでイスラム系によるデモなど)あちこちで起こっていますが、当時はまだそれほど多くはありませんでした。ですから、この1992年のデモは大変目を引き、私自身、大衆が持つパワーに関心を持った部分はありますね。ただ、その後、本書を書くに当たって調査を行う中で、民主化の起点だといわれてきた92年5月の流血事件後こそが、タイを後々反民主化させていく、もしくは民主化を後退させていく遠因であり、重要な契機でもあったということが分かってきました。92年5月以降にタイが民主化したという常識的な理解とは違う、隠されていた正反対の真実――常識、先入観と違うこうした部分は、研究者以外の方にも面白く読んでいただけると思います。

 

 

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  • ⅰ アクター(政治的行為者):政治的に重要な行動をとる主体。政治家など個人の場合もあれば、政府、政党、軍部、NGOなどの組織や集団を指すこともある。
  • ⅱ 中立で公平な法の適用を行うべきである裁判所が、政治的役割を担っている状況を指す。近年、先進国のみならず新興国でもみられる現象となっている。裁判所が政治の領域に入りすぎていること自体が問題視されるが、特に新興国においては、裁判官が軍部や既得権益層に近い政治的立場をとっており、判決内容に政治的偏向性がみられることが強く批判される。

 

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