東南アジア研究所の過去, 現在, そして未来へ
写真1 故水野浩一教授追悼寄金呼びかけのためドンデーン村を行く調査チームと村人たち (1981年8月)水野教授は東南アジア研究センター最古参の 研究者の一人で,東北タイのドンデーン村を中心とする農村研究は国内外の研究者から高い評 価を得た。1979 年 46 歳の若さで逝去された。京都大学東南アジア研究所(東南ア研)は,東南アジアおよびその隣接地域を総合的に研究することを目的として,学内関係者が力を合わせて50年前に設立した研究機関です。その特色は,自然科学の研究者を多く擁する点にあり,欧米の地域研究が人文社会科学とくに政治学や人類学,歴史学などを中心とするアプローチによるのとは大きく異なります。すなわち,当該社会の歴史背景と政治・経済・社会の現況のみならず,長期にわたり人間活動と自然界との相互作用が作り上げてきたインターフェースとしての生態環境も重要な調査研究の対象としています。
それゆえ人々の生活が繰り広げられる地域社会に密着したフィールドワークと,学際共同研究を重要な手法としています。それは蟻の目でミクロな世界を仔細に理解すると同時に,さまざまなミクロ世界を結び付け包摂するネットワークやシステムの全体像を把握するためです。さらには人の暮らしを左右する自然環境の動態メカニズムを明らかにすることを目指します。ミクロとマクロの複眼的な視点と考察,人間と自然とが相互に影響し干渉しあう動的な関係の分析を,少なくとも個々の研究者が頭の片隅でしっかりと意識しています。そのうえで研究所全体として文理にわたる学際的で総合的な共同研究を目指している点で,欧米型の東南アジア研究機関と大きく異なっています。
近年では,「生存基盤」という鍵概念によって,文理を包摂する学際共同研究を推進してきました。2007年に開始したグローバルCOEプログラム(学際,複合,新領域)「生存基盤持続型の発展を目指す地域研究拠点」(代表:杉原薫教授,2007–11年度)では,地球温暖化や自然災害,エネルギーの問題,人間の安全保障,越境感染症の防疫などといった緊急の重要課題にも目を配り,先端技術の開発に携わる科学者との学問的対話と研究協力を進めました。「生存基盤」に着目した学際共同研究は,グローバルCOEの成果を引き継いで,特別経費プロジェクト「東南アジアにおける持続型生存基盤研究」(代表:河野泰之所長,2011–16年度)へと展開しています。
研究所の歴史を振り返りますと,そうした学際研究は,設立の初期から果敢に取り組んできました。たとえば東北タイのドンデーン村の50年近くにおよぶ学際共同調査・研究の継続があります。本書の第2章で河野が詳しく説明しているように,ドンデーン村では,1960年代後半に水野浩一(社会学)が着手して以来,1980年代には,福井捷朗(農学),海田能宏(農業工学),口羽益生(社会学),林行夫(人類学),河野泰之(農業工学)らの所員による長期の学際合同調査が行われました。また1990年代,2000年代にも,継続的に学際共同調査が行われてきました。村の8千区画を越える田(区画整理事業により2000年には3千区画ほどに統合)の1枚1枚に関して,毎年の米の収量や,投入財の費用,売買等による所有権の移転等の基礎データが集積され,研究所にとって貴重な財産になっています。
個人的な見解を書くことを許していただけるならば,学際研究というのは,異なるディシプリンの専門家たちによる,知的異種間挌闘技のアリーナと捉えることができるでしょう。挌闘技というと喧嘩のイメージがあって適切でないならば,異業種間の協力ゲームと言いかえることができます。特定の喫緊・重要課題に関して,異なるディシプリンの専門家がそのゲーム(研究アリーナ)に参集し,それぞれのアプローチ,得意技で調査・研究に携わり,そこで得られた理解や見解を皆で共有し,批判的に検討し,建設的に総合化してゆこうとする志と実践が学際研究です。
具体的には,「群盲,ゾウをなでる(評す)」の寓話が分かりやすいかもしれません。幾人かの盲人が,それぞれゾウの鼻や耳や牙や足や尾や胴など,体の一部分だけを触り,その具体的で確かな手触りにもとづくゾウの姿をあれこれ言いあう。もちろん触った部位によりゾウの形はまったく異なって想像され,それぞれ自分が正しいと主張し続ける限りは対立が深まる。しかし何らかの理由でそれが同じ巨大な動物の体の一部分であることに気づくと,対立は雲散霧消し,各自の断片的な情報を総合して,正しいゾウの姿形を描き出そうとする協力ゲームを始めることができる。
学際研究に必要なのは,この寓話の盲人たちのように,第一に自身の手で対象をしっかり把握すること,そして第二には自身が得た情報だけで結論を急がず,同じ対象(の一側面)に触れている別の人間の理解と主張に謙虚に耳を傾けることです。すなわち学際研究の技法とは,自身のディシプリンが明らかにする具体的な細部を,異なる専門家が明らかにする細部と照らし合わせ,大きな全体像を正しく認識するための手続きです。その際に必要なのは,自己に対する謙虚(自身の研究では現実の総体をそのままに認識把握できないという限界の自覚)と共同研究者に対する敬意(自身の知らない世界を明らかにしてくれる期待)です。言葉を変えて言えば,学際研究を必要とする現実の問題群の複雑さと重層性,それゆえに全体像を一人で把握することの困難さや不可能性を自覚し,知的な協力ゲームを楽しもうという姿勢が,問題解決へと至る可能性の隘路を開いてゆく基本です。
写真2 スラウェシ島での調査を終え,サトウヤ シの樹液から作ったヤシ酒を村人と楽しむ田中 耕司助教授(当時)(1991 年,お別れパーティで)もっとも,それは「言うは易く行うは難し」です。その難しいことを,東南ア研が可能としてきたのは,長期のフィールドワークを一緒に行い,同じ釜の飯を喰い,その後に酒を飲みながら,時に深更まで語り合うことによってでした(Tanaka2012)。そうした共同で行う濃密なフィールドワークを現在でも積極的に行うことに加えて,京都での研究会やセミナーが終わった後に,食事(飲み)会に流れて,議論を続けることもまた,学際共同研究のための重要な知的インフラとなっています。研究所が地理的にはコンパクトで,歴史ある豊かな文化伝統と同時代的コスモポリタン性を合わせもつ京都という町にあることが案外と重要です。それが,学際研究に必要な研究者個々人の卑小さの自覚と謙虚な姿勢,それゆえに異なる専門の研究者との積極的で親密な交流を促す目に見えない力となって作用しています。
京都の町の魅力と学際研究への果敢なチャレンジの姿勢・伝統とが,柔道で言う合わせ技1本(の勝利)となって,東南ア研が海外の研究者を魅了する特徴や強みとなっています。そのことを自覚し,所の先輩や共同研究に参画された先生方が残してくださった伝統と財産を受け継ぎ,さらに発展させてゆく責務があることを,所員一同痛感しています。
歴史を振り返りますと,「東南アジア研究センター」の構想に関して,学内に設置された計画準備委員会が1962年に5回の審議を経て答申した基本方針の第1項は,「この研究センターは,広く人文・社会および自然科学的研究を行うこととする」と明記しています。これにもとづき,1963年1月の評議会において,人文・社会科学部門と自然科学部門とからなる自主的研究組織として,「東南アジア研究センター」が学内措置によって発足しました。
さらに1965年4月に,国立学校設置法施行規則第20条の2により東南アジア研究センターが官制化され,生物構造研究部門が設置されました。官制化前の運営協議会で幹事の役割を果たしてきた本岡武(農業経済学)が6月1日付けで初代教授に就任し,7月1日には駐タイ日本大使館に勤務する石井米雄(タイ文化・歴史研究)が助教授として着任しました。また,農学部の定員を借用する形で,官制化前のセンターで唯一の専任教官であった飯島茂(文化人類学)が正式にセンター助手として移籍し,荻野和彦(森林生態学)が新たに助手として採用されました。人文・社会科学と自然科学とを跨境しようとする官制化の当初からの志向は,これ以降も現在にいたるまで維持継続され,研究所の特色となっています。
設立50周年の節目を記念して刊行される本誌は,25年史,そして35年史に続くものです。研究所の沿革に関しては,この2冊(および2007年度自己点検・評価報告書)に詳細に記されています。そのため本誌では,屋上屋を重ねることをなるべく避け,35周年以降の研究所の発展と,今後の展望を中心にして簡単にまとめます。前2冊と異なり,本誌の特徴あるいは力点は,所員の各自が,自身の研究の面白さと意義を分かりやすく紹介している第2章にあります。第2章で紹介する多彩な東南アジア世界の魅力を先に楽しんでいただいたほうが,現代世界の重要課題に学際的に取り組む研究所の具体的な姿を理解しやすいかもしれません。
本章の主題である沿革と特徴に関係して,25周年と35周年の2つの記念誌は,それぞれ『地域研究へのあゆみ』と『地域研究のあゆみ』という標題のもと,ともに「地域研究」をキーワードとして強調しています。副題に25年か35年かの違いがあるだけです。細かな含意にこだわれば,25周年では地域研究の高みを目ざしての未完のチャレンジ,そして35周年ではいちおうの達成を得て,今まで歩んできた道をふり返る,というニュアンスを読み取れるでしょう。しかし,50周年の本誌では地域研究の旗を高く掲げてはいません。その理由は,90年代に至るまで着実に積み上げてきた地域研究の成果を財産あるいは基盤として,しかしそこに安住して止まることなく,さらにその先へと研究を積極的に展開してゆく必要性と責務を自覚しているからです。具体的には,これからの東南ア研は,京都大学の関連部局および学外海外の関連機関とのより緊密な連携と協力のもとで,東南アジアの学際研究を推進する国際的な拠点,あるいは強力エンジンのひとつになろうとしているからです。
後に詳しく見るように,冷戦の終結(1989年11月のベルリンの壁崩壊と,同年12月のブッシュ・ゴルバチョフのマルタ会談での終結宣言)と軌を一にするように,グローバル化とネオリベラル経済の浸透が急速に進み,東南アジアの地政学的な景観が一変しました。東南アジアはダイナミックな発展と変容の渦中にあり,それにともなって東南アジア・アセアンの可能性が広がり,同時に対処すべき問題が大きく変わってきました。新しい葡萄酒(東南アジアの現実)を入れる新しい革袋(東南アジア研究)が,今,必要とされているのです。
それは,東南アジアを研究するのではなく,東南アジアで研究すること(もちろん東南アジアの人々や研究者とともに),そして研究の成果を東南アジアから世界に向けて発信することです。ともすれば,地域研究は,その地域に関するさまざまなことを総合的に研究することと思われてきました。しかしながら地域は,所与のものとして永続不変に存在しているわけではありません。地域としての有意な単位が出現するのは,なんらかの力の作用が働き,その力の行使や影響によって一定の地理空間・範囲が意味づけられたまとまりをもって立ち現われるときです。たとえば,支配地域,戦闘地域,被災地域,汚染地域,流行地域,危険地域,等々。 東南アジア研究所の過去,現在,そして未来へいずれの場合も,接頭辞を付されて意味づけられることによって初めて,地域の範囲が確定され,現出します。(もちろん地域医療や地域開発など行政サービスの対象として画定された地域や自然地理,生態環境の特徴によって画定できる地域もありますが)。
東南アジアという地域も,またアセアンというまとまりも,後述するように,ある歴史的な時点における地政学的な観点から出現しました。前者は,アジア太平洋戦争のさなかに,後者は冷戦時代の体制間競争のなかで,西側陣営にとって有意味な単位として姿かたちを現わし,その後から内実が盛り込まれ実体化してゆきました。外部環境からの働きかけ,言いかえれば強要と支援とが一体化した介入によって誘発され,それらに対峙しての反発と対抗,あるいは利用や便乗をとおして,東南アジアという実体がダイナミックに生成変化してきました。それゆえ,冷戦時代の東南アジア研究と,冷戦終結後にグローバル化が進み,ヒト,モノ,カネ,情報,その他が国境を越えて大量に急速に行きかう現在とでは,東南アジア研究のテーマもアプローチも大きく変わってきたのは当然です。
そうした変化のなかで,先輩たちが築き上げてきた良き伝統・研究スタイルをしっかりと継承し,さらに改善し発展させてゆかなければなりません。それは現場で地道な調査研究を行い,具体的な手触り肌触りをとおして,あるいは観測データその他の客観資料にもとづいて,そこに現出している,あるいは感知できる社会発展の可能性と方途,あるいは対処解決すべき問題点などに,真正面から立ち向かおうとするものです。すなわち,東南アジアに見られる可能性と問題を,まずは現場の歴史・社会・文化・政治・経済および自然・生態・環境などの重層的なコンテクストのなかで理解すること,次いで,それらがグローバルな時代に世界が共有している喫緊課題であり,東南アジアの経験とチャレンジを,広く援用できる先例やモデルとして世界に発信してゆこうとすることです。
東南アジアは,多様な宗教・民族・文化文明が共存している点で,世界あるいは地球社会ぜんたいの多様性の縮図となっています。そしてそれらの多元的共生と交流をとおして,多様性を包摂するゆるやかな共通性と一体性を作り上げてきました。と同時に,急速な経済発展がもたらすさまざまな問題が生じていることも見逃してはなりません。そうした問題群は,今日の地球社会が等しく直面するものであるゆえに,それらに対処し解決するために,日本と東南アジアの学術コミュニティが学際的な研究協力を進めることは,明日の世界を良きものにするための大きな貢献となることが期待できるのです。
それゆえ50周年を期して,東南ア研の存在理由が東南アジア研究にあることの初心を思い起こし,東南アジアの学際的・総合的研究という初志の貫徹を肝に銘じ,いっそうの精進を続けてまいります。
写真3 シリントン王女閣下(左端)に東南アジ ア研究センターで編纂したタイ語『三印法典計 算 機 総 辞 索 引 』( 5 冊 本 ) を 献 上 す る 石 井 米 雄 上 智大学教授(当時)と柴山守大阪国際大学助教 授(当時)。1990年8月27日,タイ王室チトゥ ララダ(Chitralada)宮殿(撮影:タイ王室)京大東南ア研および日本の東南アジア研究者コミュニティが常に意識してきたアメリカにおける地域研究(area study)は,冷戦の終結とともに急速に衰退し,かつての勢いを失くしてきました。冷戦期のアメリカにおける地域研究の2つの柱であった東ヨーロッパ研究と東南アジア研究は,大学における教員ポストと調査研究費が削減され,若手研究者が人生を賭けるに値する魅力を減じてしまいました。代わって,2001年の9.11テロとアフガン侵攻そして2003年のイラク戦争がもたらした政治的な混迷や緊張のゆえに,中東・イスラーム研究が盛んになっています。近年では,台頭する中国の研究にも資金と人材が集まってきています。
しかしそうした盛衰はアメリカの国内事情によるところが大きく,日本にとっては,逆に,東南アジアとの政治経済の連携と文化学術の交流とが,以前にも増して活発に,かつ重要になってきています。理由の第一は,東南アジアあるいはアセアンというまとまりが,変動するアジアのなかで,政治・経済および宗教・文化の面において重要なプレーヤーとなっていることです。東南ア研が設立50周年を迎える2015年は,東南アジア10カ国が「アセアン共同体」としての統合(連合)を正式に発足させる記念すべき年でもあります。もちろん発足してすぐに何かが急に変わるということはないかもしれません。かつてのアセアンがそうであったように,まず名前が与えられ,組織づくりが始まり,後からその内実が充填され,実体化してゆくのでしょう。すでに域内のビザなし短期滞在や大学の秋入学での統一が実施されています。
そして理由の第二は,東南アジア各国の経験が,個別にあるいは総体として,グローバル化する現代世界が直面するさまざまな問題・課題への対処や解決のための鍵やヒントを与えてくれることです。それゆえ東南アジアは,調査研究に値する実体としての存在感を高めているのです。もちろん研究所の先輩や関係者たちがたゆまぬ努力で築き上げてきた成果の蓄積は大きな財産であり,その財産を有効活用してさらなる学問の発展のために寄与しなければなりません。と同時に,今までの研究の蓄積が立派であること以上に,冷戦の終結以降の東南アジアの発展が刮目に値するからこそ,東南アジアを研究することの重要性が増しているのです。
そもそも東南アジアという地理的な概念あるいは範疇は,アジア太平洋戦争のときに日本軍が占領した地域を指す言葉として,まずイギリスで使われ始めました。大英帝国の版図に侵入する日本軍の占領地域が東南アジアとして認識され,問題化されたわけです。そして大戦の終結後には共産党が新中国を建設し,同地域に共産主義の影響が急速に浸透したことにより,アメリカを筆頭とする西欧諸国にとっても地政学的に重要で深刻な問題のある地域として存続し続けました。
実際,東南アジアは,激化する東西冷戦のもとでの熾烈な体制間競争が直接間接に引き起こすさまざまな矛盾や軋轢による武力対立・衝突の戦場であり,民族や政治路線の違いによる大量虐殺の現場でありました。人々は,数えきれないくらいの悲劇を経験し目撃してきました。ベトナム戦争(1960–75)のほか,インドネシアの9・30事件(1965)やポルポト体制(1975–79)下での大量殺戮とカンボジア内戦(1979–89),そこに介入したベトナムと中国との国境地帯での戦争(1979)とその後も10年近く続いた中越紛争など,次から次へと戦乱と虐殺が繰り返されました。大陸部だけでなく,海を隔てて遠いフィリピンでも,毛沢東主義を標榜するフィリピン共産党=新人民軍が70年代前半から90年代の初め頃まで,住民を巻き込みながら政府軍との激しい戦闘を続けました。
しかし,東西冷戦の終了(1989年にベルリンの壁の崩壊,1990年に東西ドイツの統合,1991年にソ連邦の解体)によって開かれた新たなスペースと可能性を前にして,タイのチャーチャイ首相が,1991年に「インドシナを戦場から市場へ」という域内協力ゲームの提唱をしました。それから20余年を経て,その理念が夢物語に終わらずに実現され,かつて反共自由主義経済国の連携協力組織であったアセアンが,旧社会主義の国々を巻き込み,新しいアセアンとして確かな実体を持つようになってきました。
そもそもアセアン(東南アジア諸国連合)は,ベトナム戦争が激化していった1967年に,タイ,インドネシア,シンガポール,フィリピン,マレーシアの西側陣営に属する5か国が「バンコク宣言」に署名して設立されました。1984年にブルネイが加盟し,以後,ベトナム,ミャンマー,ラオスと続き,99年にカンボジアが加わったことで,東南アジア全域の10か国をメンバーとしています。EUよりも多い6億の人口を有し,過去20年ほどのあいだ,通貨危機(1998)とリーマンショック(2008)の年をのぞけば,域内の平均で年率5%前後の安定した経済成長率を維持しています。この趨勢は将来も続くでしょう。その要因は,1)比較的に安い労賃の割に,質の高い人材が豊富であること,2)人口構成が若く生産年齢人口が多いこと,3)FTA(自由貿易協定)のネットワークの拡充にともない貿易が拡大していること,などにあります。
このように東南アジア・アセアンは,域内の政治的・社会的な安定と持続的な経済成長が注目され,また台頭する中国に対するバランサーの役割を期待され,さらにはインドと中国を結ぶ回廊あるいは緩衝地帯として(まさにインドシナですが),冷戦の終結にともなって減じた欧米の関心を,再び集め始めました。もっとも日本は,冷戦が終結する以前から,1985年のプラザ合意がもたらした円高に対処するために,生産工場をタイやマレーシア,インドネシアなどに移し始め,経済的に緊密な相互依存関係で結ばれるようになりました。
こうした冷戦の終了後の東南アジア・アセアンの社会経済発展を背景として,あるいは下支えされながら,東南アジア研究という学術世界においてきわめて重要な変化が生じています。それは,東南アジア各国の主要な大学や研究機関のメンバーが,欧米に代わって,自分たち東南アジアで生まれ育ち生活する研究者たちが,新しい東南アジア研究を推進してゆかなければならないという自覚と自負心を強く持つようになってきたことです。彼らは,欧米で学んだ人文社会科学のディシプリンの力を十分に評価しつつ(多くは留学しPh.Dを取り),それぞれの国や地域で直面しているさまざまな問題や課題に対処して解決してゆくためには,自然科学の知見も含めた学際的なアプローチが不可欠であることをよく分かっています。
また,人,物,カネ,情報などのさまざまなフローが国境を越えて新たな社会変化・編成をもたらしているゆえに,国境を越えた広がりのなかでそれらのフローを研究してゆくために,近隣諸国との研究協力が不可欠であることを理解しています。その結果,かつての一国研究(その国の政治経済的な不安定さや貧困の問題,それらと不可分に結びついていると思われる歴史経緯と伝統文化,そうした問題を解決するための経済発展の方途などが主として調査研究されました)に代わって,近隣諸国との比較研究や,多国間での人や物や金や情報のフローとコネクションの研究へと関心やテーマが変わってきています。そうした隣国の理解や,連携と協力の推進に資するような研究に,それぞれの国が助成金を用意して奨励しています。冷戦時代の落とし子とも言えた東南アジア研究は,今や,東南アジアの研究者による,東南アジアの人々と地域未来を拓く研究へと,具体的には,それぞれの国や地域,社会が直面している喫緊重要課題への対処に資する研究へと,その内実を大きく変貌させてきています。
今,東南アジアの研究者たちが強い関心をもっている具体的な問題や研究テーマは,環境(大気汚染,水問題,温暖化,森林減退,都市化と集密メガ・シティ)や災害(地震・津波・高潮,台風・洪水,噴火),越境感染症(鳥インフルエンザやSARS,デング熱),社会格差,貧困と疾病,移民・出稼ぎ,密輸やホットマネー(投機的資金)など,文理の複数の研究領域にまたがります。問題じたいが,自然・生態と社会・文化の領域にまたがって複雑であるうえに,それが生起し影響を及ぼす範囲が国境を越えた広がりをもつために,それに対処し解決の方途に役立つ研究も,学問領域を超え国境を越えた連携と協力,共同研究が不可欠になっています。
そうした東南アジアにおける新たな動きや関心と深く連動して,東南ア研の側でも,1990年代の前半頃から人間の暮らしと命に直接に関わる分野として,栄養,健康,疾病,出生,死亡等を通じたヒトと自然環境との相互作用に関わる研究の必要が強く認識されるようになりました。そこで,医学を背景とした地域研究の新しいパラダイムを長期的展望をもって確立する人材として,1996年に西渕光昭(病原細菌学・越境感染症研究),続いて松林公蔵(老年医学・フィールド医学)を教授として迎えました。熱帯,発展途上国を研究する生命科学の専門家を擁して,「人間の安全保障」という考え方を先取りした内実をもつ学際研究を推進してきたことは,研究所の大きな特色であり誇りとなっています。
先に強調したように,東南アジア地域は,30年におよぶ熾烈な国家・民族間の対立と戦争・紛争を克服し,EUよりもはるかに多い6億の人口を有し,きわめて重要な政治経済アクターとなっています。EUと比較して特徴的なのは,多様なものの混在と共生あるいは混淆です。たとえばEUの宗教的な基盤がキリスト教であるのに対して(カトリックとプロテスタントの違いはありますが),東南アジアの大陸部では仏教を基盤としつつインド・ヒンドゥ世界と中国儒教世界に接合交流し,島嶼部はイスラームとキリスト教世界を内包しています。それぞれの地域でさまざまな古代王国や高文明が盛衰し,それらを源流とする文化伝統を保持しつつ,近代に入ってからは,欧米列強(イギリス,フランス,オランダ,スペイン,アメリカ等)の植民地とされることで宗主国の文化も受容し,それによって差異と多様性に満ちた豊かな文化を開花させてきました。それら諸文明・多民族・多文化の共生(時に対立対峙しながらも)と交響をとおして,社会発展を実現させてきたことは特筆に値します。
また東南アジアは熱帯に位置し,旺盛な太陽エネルギー供給に支えられた豊富なバイオマス資源を有しており,化石燃料に代わる新たなエネルギー源の所在地としても注目されています。海と接する海岸線の長さ(沿岸部の長さと広さ)は,インドネシアとフィリピンが世界の第1位と第2位です。海域世界は豊富な海洋資源に恵まれ,マラッカ海峡をはじめ東アジアと中東・インド洋とを結ぶシーレーンが通るゆえに,政治的・軍事的にも重要性を増しています。南シナ海への近年の中国の強引な侵出は,ベトナムやフィリピンとの軋轢をもたらしています。だからこそアジアの平和と安定そして発展のために,アセアンの果たすべき役割が大きく,また期待もされているのです。
さらに環境生態学的に見て,東南アジアは,西と南にインド洋,東にアジア太平洋,北にヒマラヤ山脈があるためにモンスーン気候の恩恵に浴し,豊かで多様な(時に熾烈な災害をもたらす)自然と共にあるダイナミックな地域です。それゆえ,そうした特徴をもつ東南アジアの細部をミクロに,そして総体をマクロに研究するためには,個別具体的な場所や地区,地域に即しながら,同時に総体を俯瞰して,それぞれの位相における文化と自然の重層的なダイナミズムの両方に目を向ける必要があります。研究対象の多様性と重層性のゆえに,文理にまたがる学際的な共同研究というアプローチをすることが必然的に要請されてくるのです。そのことは,先に述べたように,東南アジア研究センターが1965年に設立されて以降,一貫して掲げてきた基本姿勢であり,それは2004年にセンターを改組して新たな附置研究所として生まれ変わった後,現在にいたるまで続いています。
そうした文理を包摂する学際共同研究の一端として紹介したいのは,先にも触れたグローバルCOEプログラム「生存基盤持続型の発展を目指す地域研究拠点」(2007–11年度)です。キーワードとして,生存基盤と地域研究の2つを並べ,しかも地域研究が生存基盤の持続と発展を目指すためにあることを明言しています。東南ア研の特徴と強みが学際共同研究にあることを前面に打ち出し,自然科学へのウイングを意識的に広げることを目指したプロジェクトでした。このグローバルCOEプログラムの前の大型プロジェクトでは,地域(研究)をキーワードとして,アジア・アフリカ地域研究研究科(ASAFAS)を主たるパートナーとしていました。文部省重点領域研究「総合的地域研究の手法確立―世界と地域の共存のパラダイムを求めて」(1993–96年度)では,それまで個別に推進されてきた世界の諸地域を対象とした地域研究を組織的につなぎ,地域間比較を試みました。文部省科学研究費補助金中核的研究拠点(COE)形成推進計画「アジア・アフリカにおける地域編成―原型・変容・転成」(1998–2002年度)では,地域研究における世界的な中核研究拠点となるための基盤を整備しました。さらに21世紀COEプログラム「世界を先導する統合的地域研究拠点の形成」(2002–06年度)では,東南アジア各地にフィールドステーションを設置し,若手研究者の人材育成体制を整備しました。
こうした地域研究の蓄積の成果をふまえ,新たな展開としてグローバルCOEプログラムで目指したのは,空間的には地球規模で,時間的には人類の出現以前にも目配りする超長期の歴史のなかで,アジア・アフリカ地域の持続的発展に関する本格的な文理融合型研究に取り組むことでした。そのために,東南ア研が主幹部局となり,地域研究を志向する5つの部局と,農学,生態学,医学,工学などのサイエンスを志向する4つの部局が連携協力して,環境と持続性についての根本的な価値の転換を求める,新しいパラダイム形成のための共同研究を行いました。
その際に,欧米や日本の歴史経験を前提とした従来の認識枠組みを相対化するため,3つのパラダイム転換にチャレンジしました。すなわち「生産から生存へ」,「温帯から熱帯へ」,「地表から生存圏へ」です。そして「生存」のための科学技術の先端知と各地域に継承されている在来の知とをすり合わせ,具体的な応用と活用に向けての発想転換の手がかりを得る知的協力ゲームのアリーナとして,とりわけ東南アジアが重要でした。それは,先に述べたように熱帯に位置して豊かでダイナミックな自然環境に恵まれ,しかも三大宗教や中国・インドの大文明,そして西欧近代の列強の植民地支配の影響を受け,異なる歴史発展経路と言語・文化・民族の多様性を包摂しており,地球規模の多様性の縮図となっているからです。しかも,そうした多様性が対立と紛争に向かうのではなく,各々の社会発展へと交響してゆくような共生の技法を内包している点で,望ましい地球(環境)と人間(社会)との共生発展モデル(多元共生社会)となりうる可能性があるのです。
グローバルCOEプログラムの成果として(これから考究を深化すべき中間報告の段階ですが),杉原薫・他(編)『地球圏・生命圏・人間圏―持続的な生存基盤を求めて―』(京都大学学術出版会,2010)や「講座生存基盤論」全6巻(京都大学学術出版会,2012)などを刊行いたしました。また,このプログラムを継続発展させるかたちで,文科省の特別経費(国際的に卓越した教育研究拠点機能の充実)による「東南アジアにおける持続型生存基盤研究」プロジェクト(2011–16年度)を推進しています。
図1 東南アジア研究所スタッフの専門分野と在籍期間 (研究部作成)
上述のように,東南ア研は,京都大学の他部局の参加や協力を得ながら東南アジア研究の学際共同研究を推進するとともに,国内において,また国際的にも,研究連携・協力のためのネットワークの整備拡充を積極的に行ってきました。2009年には,東南アジア研究に携わる国内外の100を超える諸学会や諸団体からご支援をいただき,「東南アジア研究の国際共同研究拠点」として,文部科学省より共同利用・共同研究拠点の認定を受けました。また日本学術振興会の助成による「アジア研究教育拠点事業」(2009–13年度)を台湾中央研究院・アジア太平洋地域研究センター,タイ・タマサート大学,インドネシア科学院[LIPI]・政治研究センターとともに推進しました。
そして英語による成果発信を強化するために,1963年に創刊した学術誌『東南アジア研究』の発刊システムを変更しました。2011年まで同誌は,年4回発行する季刊誌として,レフェリー制度のもとに国内外の研究成果を英語と日本語で掲載してきました。それを2012年から,『東南アジア研究』は日本語の学術誌として年に2回刊行し,いっぽう英文での成果発信を強化するため新たに英語学術誌SoutheastAsianStudiesを創刊しました(年3回刊行)。
写真4 2013 年 4 月 15 日に,アウンサン・スーチー氏が来所し,彼女のノーベル平和賞受賞 (1991 年)を記念して設置されたスーチー・ルー ムを見学された。スーチー氏は,1985 – 86 年の 1 年間,客員研究員として在籍され,ご尊父であ り,ビルマの独立運動を主導したアウンサン将 軍の研究をされた。左より中西嘉宏准教授,ア ウンサン・スーチー氏,清水展所長(当時)また,それまで日本語と英語のバイリンガル誌であったNewsletterを,2010年の第62号からは英語誌とするとともに,紙面をA4版カラー表紙の32頁に一新しました。主として所員や客員研究員の調査研究の成果を分かりやすく報告・紹介する内容として,年に2回発行しています。2002年に創刊した英語と東南アジア諸言語(タイ語,インドネシア語,タガログ語)による,東南アジア地域に関する最新情報をレヴューするオンライン・ジャーナル Kyoto Review of Southeast Asiaは10周年を期して2012年に内容を一新し,拡充しました。
英語による国際発信の強化を直接間接に下支えするとともに,国際的な研究協力・連携のネットワークを活性化するために重要な役割を果たしているのが,「外国人研究員(2014年度より招へい研究員に名称変更)」(Visiting Research Scholar)の招へい制度です。1975年に発足して以来,2014年までの40年間に346人が京都での充実した研究活動の日々を送りました。彼ら彼女らは研究所にとって重要な協力者,応援団となっています。募集と選考は公募制であり,現在ではホームページ上で広報と申請の受理をしています。半年滞在を基本とする研究員のポストは6つあり,半年ごとに公募をして1年で12人を招へいしています。
年ごとに応募者が増え,この数年は募集定員の7~8倍に達しています。研究員の出身国は東南アジア・アセアン諸国だけでなく,バングラデシュ,中国,韓国,欧米などの広範囲にわたります。経歴も,研究教育機関の教員や研究員だけでなく,政府関係者,ジャーナリスト,図書館司書,NGOワーカー,IT研究者など多岐にわたっています。研究員には,往復の渡航費用のほか,京都での住居・生活費が支給され,研究に専念することと,その成果を本や論文で公表することのほかには何の義務も課せられていません。
こうした東南アジア研究の世界拠点としての役割は,日本財団により2000年に創設されたアセアン域内の交流プログラム,API(Asian Public Intellectuals)フェローシップへの積極的な関与によってさらに強化されました。APIプログラムは,多国間の連携に基づき,同じ課題を共有する各国のフェローが相互に交流をし,域内でどのような問題があり,どのように対応が行われているかを学びあい,国をこえてつながり,コミュニティを形成し,様々な現場の課題について声をあげ,できるかぎり広く周知し,そして最終的にはインパクトのある提言を行うなど変革をもたらす力になることを目指してきました。Asian Public Intellectuals は直訳すればアジアの公共の知識人ですが,知識人とは,学術研究に携わる人々のみではなく,ジャーナリスト,アーティスト,NGOスタッフや市民活動家も含み,まさに学問の枠を超えた多分野の交流を実施してきました。
当初はマレーシア(マレーシア国立大学国際研究所),タイ(チュラーロンコーン大学アジア研究所),インドネシア(インドネシア科学院),フィリピン(アテネオ・デ・マニラ大学社会科学研究科)と日本(京都大学東南アジア研究所)の5カ国のパートナー機関が連携しました。この連携に基づき,毎年4–5人のフェローが各国から選ばれて,自国以外の国で特定のテーマを掲げて調査をし,その成果を全員が一同に会する合宿セミナーで発表しあうという形の交流プログラムです。その後,カンボジア,ベトナム,ラオス,ミャンマーからもフェローが選ばれるようになりました。東南ア研はパートナー機関として事務局を設け,来日するフェローの滞在と調査の支援を行い,年に数度のフェローによるセミナーを本研究所で開催しました。また,東南アジア各国からこのプログラムで本研究所に33名が滞在しました。このプログラムは,2015年に一つの区切りを迎えましたが,最終年度までに338名のフェローが交流に参加(うち日本から58名)しました。
また,東南ア研が1977年以来,毎年,東南アジアの学術研究に関心を持つ日本人の学生や院生らを対象としてとして受講者を募り京都で実施してきた東南アジアセミナーを,2010年からは,海外で英語で実施しています。毎回,開催地で関心が高く時代に即したテーマを掲げて,所内外から講師を集め,講義と討論という形で進めてきました。当初は「夏季セミナー」とも呼ばれ,1980年代までは夏休みに2週間にわたって実施していましたが,その後5日間のプログラムとなりました。第33回(2009年)を京都において英語で実施したのを契機に,第34回(2010年)からは東南アジアの大学と連携し,受講者もアセアン各国のみならず欧米からも招き,英語を共通語として講義と議論をしています。2010年はインドネシア(ジャカルタ),2011年はタイ(メーサイ),2012年はフィリピン(セブ),2013年はマレーシア(ペナン),2014年はカンボジア(シェムリアップ)で開催しました。
さらに東南ア研は,インドネシアとタイの京都大学同窓会組織と連携して,2007年度より毎年,京都大学東南アジアフォーラムを開催しています。京都大学は,古くから東南アジア諸国出身の留学生や研究者を受け入れてきましたが,それらの留学生は,帰国後に母国の研究教育機関や政府省庁,民間企業などで活躍しています。そこで東南ア研は,元留学生たちの同窓会組織と連携し,京都大学の他の部局の協力を得て,最新の研究成果を相手社会に還元することを目的に,最も関心の高い学術テーマに関連したフォーラムを開催してきました。インドネシアのジャカルタとタイのバンコクに東南ア研の連絡事務所があり,所員が常時駐在して同窓会組織との連絡連携が取りやすいことが,まず両国で先行開催した理由でした。そこで得たノウハウを活かして,今後は他の国々でも同窓会組織との連携と協力体制の確立と,東南アジアフォーラムの開催を計画しています。
これらの諸活動に加えて,研究所の国際化にかかわる活動としてとりわけ重要なのは,2013年10月に,アジア諸国における東南アジア研究の主要な拠点機関とともに,アジアにおける東南アジア研究コンソーシアム(SEASIA: Consortium for Southeast Asian Studies in Asia)を創設したことです。参加機関は,東南ア研のほか,インドネシア科学院,フィリピン大学アジア研究所,ブルネイ・ダルサラーム大学アジア研究所,チュラーロンコーン大学アジア研究所(タイ),シンガポール国立大学アジア研究所,南洋理工大学社会科学研究所(シンガポール),中央研究院アジア太平洋研究所(台湾),台湾東南アジア学会,韓国東南アジア研究協会の10に上ります。
東南アジア研究に関しては,今までも東南アジア各国の先導的な学術機関がアジアや欧米のカウンターパート機関と協力関係を結んできました。しかし現在までのところ,それらの学術協力の主たる形態は,2つの機関の二者間の交流と協力関係を複数の相手と個々に結ぶ形をとっています。われわれの研究所も2014年12月現在,世界じゅうの50を超える研究機関と学術交流の覚書協定(MOU)を結んでいます。これらの関係を自転車の車輪で例えれば,先導的な機関が車軸となり,そこから複数の輻(や)(スポーク)が延びていている形です。私どもがコンソーシアムを設立して計画しているのは,その先の展開の仕組みです。
それは具体的には,車軸となっている先導的な機関どうしをマルチな関係で結び(東南ア研に関しては,8つの相手機関とはすでに個別に二者間のMOUで結ばれています),それが生み出す濃密な接触領域として研究連携のアリーナを新たに開き,複数機関の協力ゲームを積極的に展開してゆこうとするものです。そのために,まず各国の研究者データ・ベースを構築し共有し,キーワード検索によって,自分と似たような関心をもっている研究者を簡単に探し出し,コンタクトを取れるようにしました。研究協力・展開のための基礎インフラ作りです。それが完成すれば,国境を越えて同様な問題関心を有する者同士が,共同研究を計画し,東南アジア・アセアン地域を広くカバーする魅力的な研究プロジェクトを立案し,助成資金の申請書を作成し,資金を獲得して共同研究を実施することが容易になるでしょう。
複数の参加機関を多方向的に結ぶ協力体制を強化するためにも,もちろん顔の見える関係が重要ですから,全体的な年次会合とともに,小規模な共同ワークショップや会議の開催も計画しています。小規模な会合には,必ずしもすべての機関が関与する必要はなく,テーマにあっ た機関や研究者が自由に機動的に動いて参加するような形になります。また,相互の活動の実績や計画に関する情報を共有する場としても機能することで,院生やポスドク若手研究者のために調査・研究の情報や便宜を提供したり,トレーニングの機会を用意したりすることを考えています。すでにアセアン加盟国のあいだではビザなし交流が進められており,格安航空会社の路線網も充実しており,そうした学術交流のためのインフラが整備されています。
10機関のあいだで互いに顔の見える親密で緊密な関係と,活動を展開するための組織インフラが確立され,研究教育における協力が円滑に進められるようになれば,コンソーシアムのメンバーをアジアに限らず,欧米やオーストラリアなどにも広げることが合意されています。また,東南ア研の設立50周年にあたる2015年に合わせて,第一回のSEASIA国際会議を12月上旬に京都大学で開催することも了承されています。
東アジアと東南アジアの主要機関同士を結ぶマルチな関係ということを強調しましたが,その基本は対等で互恵互助の関係です。にもかかわらず,コンソーシアムの準備会議を私どもの研究所が中心になって進め,その結成調印式を2013年10月に京都で行い,さらには2015年に京都で発足記念の第一回国際シンポジウムを開催するのには理由があります。それは,参加機関が,私どもの研究所が設立の当初から特徴として地道に続けてきた文理の境界を超えた学際共同研究というアプローチとその成果の蓄積を高く評価し,強い関心と期待を持ってくれているからです。もちろん京都が古い歴史を持つ古都であり,また環境問題への対応に関する国際合意文書の京都議定書が結ばれた場所であるということも,京大と東南ア研の良きイメージに役だっています。
最後に付言しておきたいのは,東南アジアとの国際連携強化を図る大事な展開として,京都大学が,2014年6月バンコクに京都大学ASEAN拠点(Kyoto University ASEAN Center)を設置したことです。所長の柴山守名誉教授(元東南ア研教授)ほか,学術研究支援室(URA)専門職員,事務職員,現地雇用職員の4名の常駐スタッフを擁し,京都大学とアセアン各国の大学等との連携強化を図っています。この事務所の開設のための設置準備室として,東南ア研はバンコク連絡事務所の一室を提供し全面的なサポートを行いました。京都大学ASEAN拠点のミッションは,(1)各地の大学・研究機関,政府機関,同窓会などとの連携推進によるネットワーク形成(2)域内での情報収集・発信,国際共同プロジェクトの運営など研究活動の支援(3)各地の大学との交流推進,留学希望者への情報提供・相談・現地入試の支援,などとされています。
それに対して東南ア研は,東南アジア・アセアン研究の世界拠点となるという目的を旗幟鮮明に掲げています。京都大学ASEAN拠点と東南ア研が,京都大学という車の両輪あるいはツイン・ターボ・エンジンとなって,「東南アジア・アセアンとの教育研究連携は京都大学だ!」との評価を確立し実現するために,最大限の努力が必要なことを十分に理解しており,積極的に取り組んでゆきます。
今まで,東南アジアという地域認識の出現とそれがアセアンとして実体化していったこと,それに応じて,そこを対象とする東南アジア研究も変貌していったこと,その経緯と現状,そして未来への構想という視点から報告をしました。最後に簡単にまとめますと,1)国境を越えたまとまりとしての「アセアン共同体」が2015年に誕生し,域内の交流と協力がいっそう進んでゆき,2)それに呼応して東南アジア研究も,一国研究から多国間比較あるいは多国間統合の側面の研究へと関心が移りつつあり,3)各研究機関が個別に結ぶ二者間のMOUを量的に拡大してゆくことから,多国間の複数機関のあいだでのマルチ・ネットワーク型の研究連携・協力体制づくりが試みられ,4)現地の社会が直面する喫緊課題に対処対応するために,学問の個別の専門分野を超えた学際研究の重要性と必要性が自覚され模索されています。
東南ア研は,そうした東南アジア=アセアンの変貌と発展にこれからも寄りそいながら,学際共同研究のパートナーを学内・国内だけでなく,海外にも広げ拡充してゆくことで,日本とアセアンの互恵互助のパートナーシップの強化に,学術面から貢献してゆきます。
(文責:清水展)
Page topCenter for Southeast Asian Studies, Kyoto University