社会圏

つながりとしての社会圏

つながりとしての社会圏

清水展

近代化と生業転換
―ドンデーン村研究から学んだこと―

河野泰之

多言語を生きる東南アジアの人々
―ラオスの少数民族語を学びながら多文化共存を考える―

ネイサンバデノック(NathanBadenoch)

フィリピンの山奥からグローバル化を見る・考える

清水 展

東南アジアにおけるケアの社会・文化基盤

速水洋子

つながりとしての社会圏

清水 展

aaa

地球上で人間が生きられる世界は限られている。地球の表面の7割以上を占める海のなかでは生きてゆけない。標高5,000 メートルを超える高地には暮らせない。もし地球が1メートルの球だったら富士山の高さは0.3mm,エベレストは0.7mmである。最も深い海のマリアナ海溝は 1 mmである。飛行機は地表1mmの高さを飛んでおり,スペース・シャトルでさえ,2~3mmに過ぎない。地球を覆う薄い空気の被膜に包まれて人間の生活が営まれている。

銀河系や太陽系のなかに地球を置いてみれば,この生活圏は実に狭く小さい。実際に人間が動きまわり日々の暮らしをしている世界は,さらに狭い。同様に,この世に生を受けた個々人の寿命もまた,地球の誕生(46億年前)や人類(600万年前)さらには現生人類の出現(20万年前) からの途方もない長さに比べて,きわめて短い。そのような小さな世界で限られた命の連鎖のなかで生きてきた人間の生産活動が,今では,かけがえのないコモンズ(共有地)としての地球に暮らす様々な動植物・生命体の生存を危うくしている。

霊長類・ホモサピエンスとしてのヒトは,長いあいだ卑小な存在として,小さな環境ニッチにそれぞれ適応しながら暮らしてきた。しかし,15 世紀末からの大航海時代に始まる西欧世界・ システムの拡張と包摂が,この数十年のあいだに地球規模で急速に進み,近年さらに強度を増し ている。近代化とかグローバル化と呼ばれるこの包摂の進行は,経済の成長による恩恵とともに,人々の暮らしや社会と文化,さらには自然環境にさまざまな弊害をもたらした。とりわけ,それが顕著に表れているのが,西欧列強の植民地となった熱帯地域であり,東南アジアも例外ではない。

しかし,こうした弊害を,いっぺんに全て取り除くことはできない。そして近代以前へと逆戻りができない以上,今の状況の所与の条件のなかで,これ以上は悪くならない,できたら今日よりもマシな明日を作ってゆく地道なチャレンジを続けるしか他に道はない。ヒト個々人と人類 が,そして様々な動植物・生命体,万物諸霊が共存して生き残れる地球社会を作ってゆく志と術が求められている。それを目指して,各々の生活の場で各自が持久戦を戦ってゆくうえで,近代化とグローバル化が開いたスペースを活用すること,旧来の枠や囲い込みや境界を超えた同志や同類と連携し助け合うことが大切である。

第2章の基本的な共通理解は,分析的な思考と理解のために,とりあえず社会圏,人間圏,生 命圏,地球圏というように分けてはみるものの,それらが不可分に結び付き,相互に影響を与え あっていることである。本節では,まずはミクロな社会圏に着目するが,そのなかで暮らすヒト 個々人が,コミュニティが,旧来の常識や境域の範囲を超えるさまざまネットワーク(いわゆる IT ネットだけではない様々な回路)で結びついていること,それらネットワークを活用して交 流・協力・共闘することが,オルタナティブな社会を構想し,実現してゆくための第一歩となることを示そうとするものである。

(文責:清水展)

Next

近代化と生業転換 ―ドンデーン村研究から学んだこと―

河野 泰之

ここ数年,所内外の同僚とともに,生業転換をキーワードとする研究に取り組んでいる。生 業転換という言葉は人口転換にヒントを得たものである。人口転換が人口構造の本質的な変化を引き起こしているのと同じレベルの変化が,この数十年間,東南アジアの農村の生業や生活においても見られるのではないかと考えた。私自身がこの着想を得たのは,1980 年代からの調 査地であるドンデーン村の変化を観察したからである。

東南アジア研究所の先達,水野浩一先生がドンデーン村で調査を行ったのは1960年代だ。 水野先生は,当時の東北タイ農村社会を「屋敷地共住集団」と表現した(水野浩一.1981.『タ イ農村の社会組織』)。1980年代になって,福井捷朗先生や海田能宏先生,口羽益生先生が中心となって第2回目のドンデーン村調査が実施された。所内外の教員や大学院生による学際チームが編成され,農家を借り上げて村に住みこんだ。カウンターパートであるコンケン大学農学部の学生がアシスタントとして雇用され,彼ら/彼女らも村に住みこんだ。現地調査は1981年と1983 年に実施された。当時,大学院生だった私は1983年の調査から参加した(写真 1)。 第2回調査の成果を,福井先生は「ハーナーディー(良田を求めて)」をキーワードとして取りまとめた(福井捷朗.1988.『ドンデーン村―東北タイの農業生態』)。私自身は,天水田水稲作の生産力を現地調査とシミュレーションモデルに基づいて定量的に評価して,営農技術改善の可能性を検討し,それをもとに学位論文をとりまとめた(河野泰之.1985.『熱帯モンスーン地域の天水田の農業基盤の研究』)。学位論文の結論は,ドンデーン村の天水田水稲作は, すでに技術的に最適化しており,今後,生産力が向上する見込みはない。したがって,タイ社 会の経済発展にともない農外就業機会が増えれば,村人の水稲作離れが進行せざるをえないだろうというものであった。

その後,私は,東南アジア大陸部のさまざまな地域の土地の利用や管理へと研究テーマを広げた。そのため,ドンデーン村研究から離れた。しかし,第 2 回調査で若手の番頭役を務めてくださった宮川修一先生はドンデーン村に食らいつき続けた。毎年のように村を訪問し,村人 に依頼して土地利用や水稲作の変遷を記録し続けた。その成果が蓄積され,プロット単位での水稲収量の20年間のデータを見せていただいたときは感動した。さまざまなイマジネーションが沸き起こった。これほどインパクトのあるデータに接したのは初めてだった。地道なデータ収集の威力をまざまざと見せつけられた。2000年代になって,舟橋和夫先生や宮川先生がドンデーン村の第3回調査を実施された。私はメンバーに加わらなかったが,ときに調査の進捗状況を拝聴させていただく機会があった。調査結果の整理がようやく一段落したので(舟橋和夫. 2006.『ドンデーン村再々訪』),宮川先生のもとで学位を取得した渡辺一生さんとともに,少し細かくデータを見る作業を数年前から始めさせ ていただいた(写真 2)。

写真1 調査の合間に村の娘さんたちと談笑す るのが楽しみだった(1983 年ドンデーン村) 1980年代前半から2000年代前半までの20年間のドンデーン村の村人の生業の最大の変化は,農 外就業と現金収入の増加である。20歳から59歳までの中核的年齢層の村人の農外就業割合は,男性が47%から79%に,女性が12%から67%に増加した。女性の増加がとりわけ顕著である。現金収入は,一世帯当たり平均で,年間 36,000バーツから131,000バーツへと3.6倍に増加した(2001年の物価に調整済み)。この増加は,ほぼ,農外就業がもたらしたものである。すなわち,1980年代の調査時に私が予想したように,タイ社会は経済成長し,村人は農外就業を積極的に選択し,村人の生業における農業の重要性は相対的に低下した。

ところが,予想に反して,水稲作は衰退しなかった。同じ期間に,村の水田面積は宅地への転用などで351ヘクタールから308ヘクタールへと減少したが,稲作従事世帯の割合は74%から79%へと増加した。その結果,平均経営規模は2ヘクタールから1.4ヘクタールへと減少した。さらに驚くべきことに,ヘクタール当たり1~2トンであった収量が3トン前後へと増加した。すなわち,大部分の世帯は,農外就業を増やすなかで,水稲作にも意欲的に取り組み続 けたのである。

この一見矛盾する変化が同時並行して起こっていることをどのように理解すべきか。これは世帯単位で生業だけを見るのではなく,世帯の中に分け入り,生活面をも視野に入れてみていく必要があると考えた。

写真2 第2回調査以来,私たちの調査を手伝ってく れているポーマーとポーディー(2003年11月ドンデーン村) 村全体の人口構成は,人口転換の進行を顕著に示している。村の総人口は20年間に901から1,085と約20%増加したが,20歳未満人口の割合は45%から 31%に減少し,60歳以上の高齢者の人口は6%から12%に増加した。まさに少子高齢化である。減少した年少者や増加した高齢者の生活にはどのような変化があったのか。5歳から19歳の年少者の就学割合は,女性で57%から92%に,男性で63%から93%に増加した。すなわち,ほとんどの児童が小学校,中学校で学んだ後,高等学校や専門学校へ通うようになり,若年労働力は減少した。60歳以上の高齢者の就労割合は,女性で39%から64%に, 男性で68%から89%に増加した。長生きするようになったのみならず,長く働くようになったのである。その結果,高齢者労働力は顕著に増加している。中核的な年齢層ではとりわけ女性の兼業化が進行していることは先に述べた。それに加えて,農外就業の職種が,世帯主に 限っての数字だが,平均1.5職種から2.4職種に増加した。中核的年齢層は労働に費やす時間が増え,在宅の時間が減少していると推察される。

世帯の家族構成の変化は,このような人口構成や就学・就労状況の変化と整合したものであ る。世帯の家族構成は,20年間で,核家族が63%から42%に減少し,三世代からなるステム家族が24%から35%に増加した。子どもたちは学校へ通い,親世代は外で働き,祖父母世代が,中核的年齢層の女性に代わって家事や子どもの世話を担うかたわら,農業や手仕事を営むという図式であろう。また親子関係に基づかない世帯も6%から11%に増加している。親世代が出稼ぎで不在のため,祖父母と孫や叔父・叔母と甥・姪によって構成される世帯である。

このような状況下で水稲収量の増加はどのようにして達成されたのか。20年間の変化をつぶさに見ると,さまざまな技術要素を指摘することができる。区画整理と農作業の機械化,灌漑の導入や用水循環利用の普及,改良品種の普及,作付方法の多様化,化学肥料と農薬施与の普及等である。これらはいずれも,土地集約とともに労働節約に効果的な技術であり,水稲作の発展過程において普遍的に観察される技術改良である。しかし,これらの技術改良が「まんべんなく」適用されたわけではない。ドンデーン村の水稲収量はプロットによって大きく異なる。この状況は,近年,ますます増幅されている。ヘクタール5トンを超えるほど高い収量を示すプロットと1トンにも満たないプロットが併存している。これは,それぞれのプロットの 本来の条件に加えて,水管理や肥培管理,雑草や虫害対策の違いの結果である。ドンデーン村の世帯は,それぞれの事情に応じて,労働や資金や生活の最適な組み合わせを探っている。結果として,稲作にかける労力や資金には世帯間で大きな差異が生まれるのである。「見栄」ではなく,「本音」で生きているのである。これは,稲作のみならず,ほかの生業に関しても同様だろう。

このように考えてくると,近年の水稲作の変化や兼業化の進展に代表される生業の変化が,人口動態,中核的年齢層や高齢者の生活,女性の役割,初等・中等教育等の生存のあり方と密接にかかわったものであることがわかる。これは,人間の成長過程や老いゆく過程,村内外における人と人とのつながりのあり方にも決定的な影響を与えているだろう。これらすべてを含めた生業転換を検証していくことが必要なのではないかと考えている。その結果として浮かび 上がってくるのは生存の多様性ではないかと思う。日本社会は,それが実態として存在したかどうかに拘わらず,標準化された生存を前提として産業構造と生業の転換を推進し,社会発展を遂げてきた。これは世界に向けたモデルにはならないと思う。それよりも,生存の多様性を許容し,多様な生業転換を支える技術や制度の開発に注力することこそ,これからの世界には 必要なのではないだろうか。

Page top

CSEAS 50th Anniversary

Center for Southeast Asian Studies, Kyoto University