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Center forSoutheast Asian Studies Kyoto University

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国際交流

連絡事務所便り:バンコク

京都大学東南アジア研究所 小林 知 (助教)    < 2008.9.8 - 2009.9.7滞在 >
- 参照点としての「国境域」 -
昨年9月上旬からの赴任が半年を超えた。この間のタイは、政治情勢の混迷が続く。タイ・カンボジア国境付近の紛争は、死者をだしながら今も火種がくすぶる。11月末~12月始の「黄色い服」によるスワンナプーム空港の占拠、ソンクラーン期間中の「赤い服」と軍・警察の攻防の様子などは、テレビや新聞で注視するが、言葉の壁が歯がゆい。ただし、この間のオフィスの業務が情勢に振り回されたことはほとんどない。
ところで、タイ東北地方南部には、カンボジア語話者が100万人を超える規模で住んでいる。国境を挟んで国民国家が接する現在の「国境域」は、近代以降の産物である。寺院に止住する僧侶の遊行や、塩・干し魚・森林産物の交易など、「国境域」とされる地域で人びとが伝統的に営んできた交流は、もともと国境など意に介さないものだった。一説によると、18世紀に、カンボジアのコンポンスヴァーイ(今のコンボントム州など)から多くのカンボジア人がスリン付近へ移住させられた。これが、現在この地方でみられるカンボジア語話者のコミュニティの起源といわれる。そして、1950年代以降にタイの政権がおこなった東北地方開発政策や各種の文化政策は、地域のカンボジア語人口を、タイ国家の一地方住民として位置づけ、表象しようとしてきた。
タイ側のカンボジア語話者の生活史から、カンボジアを中心とした「地域」の歴史を国家史とは異なる視点から描きだし、また、革命と呼ばれたポル・ポト時代の経験の内実を「下から」「辺境から」捉えなおすことができないだろうか。1970年から始まった戦禍は、「国境」をより生々しい形で具現化させ、移動を遮った。さらに、難民キャンプが生まれ、「国民として国家に帰属すること」が社会保障を享受する権利を得ることでもあるという現実を突きつけた。そのなか、自らと異なるものとして「あちら側」を対象化する意識が育ったことは想像に難くない。この歴史は、間違いなく、カンボジア「地域」史の一部である。
京都大学大学院情報学研究科 奥山 隼人 (グローバルCOE助教)    < 2008.6.8 - 2008.9.11滞在 >
- バンコクで生き物を見るには -
2008年6~9月の約3ヶ月間、バンコク連絡事務所駐在員として、バンコクで過ごした。私の専門は海洋生物学であり、主な対象生物はウミガメである。駐在期間中、タイはちょうど雨季であり、残念ながらこの時期はウミガメが少ない。このため私は、駐在業務以外の時間は、専らデータ解析と論文執筆をして過ごした。通常ならば一年の半分をフィールドで過ごす私である。事務所に籠りっ放しで耐えられるわけがない。このため、ある計画を立てていた。
タイでは、クイーンズ・プロジェクトの一環としてウミガメは厳重に保護されている。各地に保護施設があり、私のカウンターパートであるラヨーン県マンナイ島にある研究施設もその一つである。このプロジェクトの関係で、毎年シキリット王妃の誕生日である8月12日には、仔ガメの放流会が行われている。私は研究の打ち合わせを兼ねて、これに参加しようと画策していたのである。ところが、先方から、「今年は研究施設の移転で忙しいので、放流会は行わない」との返事がかえってきた。私の計画はもろくも崩れ去ってしまったわけである。
そうなると、私の足は自然と動物園・水族館へ向く。幸い、事務所からBTSで10分程のところに水族館があった。バンコク市内のど真ん中にある高級デパート、サイアムパラゴンの地下にあるサイアムオーシャンワールドである。バンコクのデパ地下は、水族館となっているのだ。東南アジア随一を誇るだけあって、巨大水槽とそこにいる生物群はすごい。巨大ザメが餌を喰らう様子など 夢に出て来そうな程おっかない。休日には、何度も出向いては水槽に張り付いていた。ぜひとも訪れて欲しいスポットである。
もう一つのおススメが、かのパッポン通りの近くにあるスネークファーム、もともとヘビ毒の解毒剤を作る目的で建てられた場所であるが、ヘビの飼育、展示も行っている。キングコブラショーもさることながら、そこで飼育されているヘビのラインナップがすばらしい。本当に多種のヘビ類がタイを始めマレー半島に生息していることがわかるし、東南アジアの生物多様性の一端が窺える。毒に関する科学的な展示もあって、生物家が心躍ることは間違いない。
京都大学大学院農学研究科 神崎 護 (准教授)    < 2008.3.15 - 2008.6.8滞在 >
- 冠婚葬祭のバンコク駐在 -
タイの3 カ月があっという間に 過ぎようとしている。 あれもしよう、 これもしようと、 計算機の中身をす べて持ってきたものの、 半分もでき ただろうか? 3カ月の任期の前半は 冠婚葬祭の1 カ月半となった。
【冠】昨年度の日本国際賞を受賞 したP.S. Ashton 博士が、 世界の熱 帯林めぐりの旅をしている。 この案 内でチェンマイへ出かけた。 あとで タイの友人に聞くと、 日本国際賞の 賞金でこの旅をしているとのこと。 彼が書き上げようとしている50 年 の熱帯林研究の集大成の本に、私た ちの熱帯山地林プロットの写真が掲 載されそうだ。
【婚】24 年来のカウンターパート の息子さんが結婚するというので、 急遽披露宴に出席することに。 円卓 が30 もならぶホテルの大会場だが、 開宴の辞もなく、 来たひとから飲ん では食べていく。 スピーチも2 つだ け。とても気楽な会だった。 招待状 が送られてきた封筒に、 祝儀を入れ て受付で渡すという、 タイにしては 意外と合理的なシステムに感心。
【葬】昨年12 月に逝去された最古 参のスタッフ、 チップさんの百日供 養に出席。 式をとりしきるお坊さん はとても明るく気さくな方。 チップ さんとも生前とても親しくしてい た方のようだ。 ところどころで皆の 笑いをとりながら式を進めていく。 最後は水掛け祭りになってしまっ た・・・・・・ 。
【祭】いよいよ待望のソンクラン。 車は消え静まり返ったスクムビット 通りだが、 Soi にはいると水鉄砲と ホースを握った男女がたむろしてい て、とても危ない。 ちょっと怖い顔 をして歩いていれば、 彼らも少しは 遠慮するのだが、 結局ラーメン屋の 女の子にパウダー入りの水を、 頭に 塗りつけられてしまった。 街中で普 通の女の子がこんなに馴れ馴れしく 触ってくるとは、ソンクランはやは り特別。
森林研究を本業とする私、 いつも 電光石火のごとく調査をして帰って いくのだが、 今回は、タイの生活を 満喫している。 残りの任期は、タイ らしく、カウンターパートとゆっく り飲みながら次の10 年の研究計画 を練ることにしよう。
京都大学東南アジア研究所 清水 展(教授)    < 2007.9.19 - 2008.3.15滞在 >
- 色彩の氾濫・黄色の洪水 -
念願かなって、9月19日からバンコク連絡事務所に来ております。今までは、もっぱらフィリピンで文化人類学の調査研究をしてきました。生まれて初めてのタイです。言葉が分からず、情報や刺激はもっぱら目から入ってきます。そのせいか街の第一印象は、色彩があふれかえっていることでした。有名ブランド店が入る洒落たモールがある一方で、道沿いには屋台が並んでいます。街全体がごちゃごちゃ雑然としている点はマニラとさして変わりません。でも、タクシーが原色の目立つ色をしているのにはびっくりしました。赤、青、黄、紫、オレンジ、ショッキング・ピンク、何でもアリです。確かにどこの国でも、タクシーは目立つ色をしています。でも、色のバラエティと鮮やかさでは、バンコクが一番でしょう。なんだか、いつも街はカーニバルといった雰囲気です。
もうひとつ目立つのは、黄色のT-シャツ、Y-シャツ、ポロ・シャツです。毎日ですが、とりわけ月曜日には、男も女も黒いパンツに黄色のシャツです。なんだかタイの国民服みたいです。このように多くの人々が頻繁に黄色を着るようになったのは、昨年6月に国王の在位60周年を祝った頃からだそうです。そう聞くと、黄色を着ることで、国王への敬愛の念を一人ひとりが示しているのか、と小さな感動を覚えます。街中のそこかしこに国王の肖像画が掲げられおり、それらも黄色プラス金色です。
フィリピンでも、今から20年以上も前、街じゅうに黄色が溢れました。それは、1983年に亡命先のアメリカから帰国し、マニラ空港でタラップから降りるところを射殺されたニノイ・アキノへの共感と共苦、そしてマルコス独裁政権への不支持の意思表明でした。未亡人のコラソン夫人は、1986年の繰上げ大統領選挙に立候補して当選したとき、黒の喪服を脱ぎ捨てて黄色の勝負服を常に着ましたし、支持者たちも皆、黄色のT-シャツでした。国王への敬愛の念と、独裁者への異議申し立て。まったく同じ種類の黄色なのに、両国では意味が逆転です。
東南アジア研究所 中口 義次 (統合地域研究部門 助教)    < 2007.3.19 - 2007.6.18滞在 >
- 日タイ修好120周年 -
1887年に日タイ修好宣言が調印されてから120年。2007年は日タイ修好120周年の節目の年である。日本とタイの交流の歴史は約600年前にさかのぼり、琉球王朝とアユタヤ王朝の交易にはじまるといわれている。その後、アユタヤの日本人町、朱印船、山田長政などの史料でその交流を知ることができる。今年、記念事業実行委員会が発足し、様々な記念事業が計画されている。外務省や在タイ日本大使館のHPでその告知がなされ、日本とタイの間の様々な分野における交流の推進、相互理解の増進を目指している。今年開催される日本タイ両国に関する催しをこの記念事業に登録すると、日タイ修好120周年記念事業のカレンダーに掲載され、ロゴマークの使用が可能となり、宣伝効果も期待される。事業の内容は、文化芸術、スポーツ、青少年教育、地域交流・草の根と多種多様にわたっている。
日タイ修好120周年に関連した内容の映画とTVドラマを紹介したい。一つは、日本とタイの文化が融合する人物である山田長政にスポットライトを当てた映画「YAMADA-THE SAMURAI OF AYUTHAYA」である。この映画は、江戸時代前期に朱印船でアユタヤへ渡り、日本人町の頭領になり、外国人でありながらアユタヤ王朝の国王ソムタムの高い信頼を得た山田長政の「日本人としての誇りと義」を描き出そうとしている。
もう一つ、日タイ修好120周年記念のTVドラマとして、「ファーとタワン(英題:ヒロシマ・スカイ)」の放送が予定されている。これは、日本を舞台としたタイ人の若い男女が主人公で、広島のお好み焼き?が取り持つラブストーリー。主演女優はタイのスーパースターのポーラ・テイラー、CMなどでよく見かける女優だ。実は……、バンコク連絡事務所駐在中に、このドラマに一言の台詞付きで出演してしまった。出演といっても数シーンのエキストラなのだが、撮影現場の緊張感を間近で感じ、タイ人俳優の真剣な演技に圧倒された。制作サイドの意向で様々な役を演じることになったが、幸いなことにNGはなかった。一言の台詞と演技でもって、日タイの交流に僅かながらも貢献できた気もするが。その台詞を紹介すると役柄がわかってしまうので書かないことにする。ドラマの放送は2007年7月から9月の予定。
初めてのバンコクで、いろいろなことがあった4カ月の駐在、私の日タイ交流史はまだ始まったばかりだ。
東南アジア研究所 山田勇 (人間生態相関研究部門 教授)    < 2005.9〜2005.10滞在 >
一ヶ月のバンコク滞在はアっという間に過ぎてしまった。今から40年前、はじめてバンコクの港におり、できたばかりのバンコクオフィスに泊まって、タイ各地を植物の田川先生と歩いたのが、きのうのように思い出される。チェンマイのドイステープのジャックフルーツの木は太さが倍以上になっていた。ピサヌロークにできたナレスワーン大学では30代の若い人が新しい研究を目指してがんばっていた。バンコクのカセツアート大学は、タイで一番大きな大学になった。オフィスのあるまわりには高層マンションやホテルが立ちならび、その間に昔からの一軒家や、古いビルが残る。朝はニワトリの声で目がさめるのがいい。あと10年たてば、このあたりはどのように変わるのだろうか。
京大本部から原監事がみえた。フィールドワークのように監査をしているという原さんとカセツアート、チュラロン大学と会合を持ち、国際交流の将来像について語りあった。
タイの大学はみな前向きであった。原さんも京大がよりよき方向に進むべく、さまざまな提案をされた。かって、東南アジアの山に生えていた沈香は10年前から植林がはじまり、沈香成分をとりだす仕組みをいろいろと工夫している。「教育は戦争だ」とカセツアート大学の副学長は言う。アメリカの学生の3割はアジア人が占めている。学生をよびこむために、常に新しい工夫をしなければならない。チュラロンコン大学は、バンコクの一等地にあるため土地活用で金をかせぐ。かってセンターに留学していたソンブンさんは、プーケットに地域研究センターをつくって、東南アジア、南アジアの研究者と学生をよびこもうという。
すべて前向きで、気持ちがいい。若い人がまさに全責任をおいつつ、前向きに動いているタイの将来がたのしみである。