要 旨:
フローレス島、エンデにおいて、儀礼は禁忌(pir'e)に満ちている〜家の外に出てはいけない、話をしてはならない、唾を吐いてはならない、咳をしてはならない、おならをしてはいけない、排尿・排便をしてはいけない。これに違反した者は、(1)不慮の死(mata
rimbo)をとげる、(2)体中血だらけになる皮膚病(neka raa)になる、(3)盗みをする(naka)、(4)婚外性交をする(p'erha)、(5)呪術師(marhi)になる、(6)妖術師(ata
porho)になる、という。
わたしは、禁忌とその違反に対する「天罰」をノートにとって、あとは何も考えずにいた。そのとき隣にいた調査者は、しかしながら、次のように疑問を提出する〜「不慮の死や人知を超えた病気と考えられている皮膚の難病が「盗みをする」ことや「婚外性交をする」という行為と一緒にされているのかという問題であった。このような事象を何らかの意味で同等とみなす見方は、明らかに、主体性を中核とする「人間」観とはなじまない」(青木恵理子近刊)と。考えてみれば、いかにもの疑問である。彼女はさらに続ける〜「見方をかえれば、その様な人間観をもつ視点こそが、それとは明らかに異なる人間観に裏打ちされた事象を、異文化として取り上げるに値する点としている、ということができる」と。この発想は、わたしの『民族学研究』に発表した論文(「未開の人格、文明の人格」)に繋がる考え方である。今回の発表は、当該の論文
---「人格」について、(1)感情と(2)動機から考察した--- の、いわば第3部である〜人格について「性格」という面から考察していきたい。